第1話

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第1話

 今にも雨を吐き出しそうな分厚い雲の下、王都から遠く離れた侯爵領、領主邸宅の主の執務室。悪趣味ともいえる(きら)びやかな装いのボールドウィン侯爵は娘を(にら)みつけ短く言い放った。 「アリス、お前は追放だ」  彼が濁った瞳でにらむのは自らの子の一人。愛情などあるはずがない。彼にとって必要なのは駒。自分のために動く駒。政権争いに使える駒。それなのにアリスは使えないどころか足を引っ張りかねない存在になった。 「理由を教えていただけませんか?」  震えないよう拳を握りしめ、気丈にアリスは問う。それでも抑えきれない動揺が腰まである金の髪に表れていた。いくら政財界に顔を出しているとはいえ13歳の少女でしかない。父の怒りを正面から受け止められるほど強くはなかった。 「理由だと? お前がそれを問うか! (わし)が第二王子派と知っておきながら第三王子に近づいておいて白々しい! 遊びでつくった子の分際で(たて)つくなど言語道断! 殺されぬだけ有難く思え!」 「私から近づいてなど――」 「うるさい! これ以上口を開くな!」  侯爵は部屋の隅に向かって、やれ、と短く言った。釣られてアリスもそちらに顔を向ける。  二人しかいないはずなのに、そこには黒いローブに包まれた男がいた。ねじれた長い木の(つえ)を持つ男は深く被ったフードで表情が見えない。 「いつからそこに」  その男のしわがれた声はアリスの問いに答るためのものではなかった。 「よろしいのですか?」 「かまわん。今すぐだ」 「わかりました」  長いローブを引きずり寄ってくる男から少しでも遠ざかろうとアリスは後退った。わずかにうかがえる青白い顔には深いしわが刻まれており、ギラつく目は恐怖そのものに見えた。  アリスはさらに後退るが、そこで足は止まった。  カツン。  男が杖で石床を突くとアリスの足は石になったかのように動かせなくなった。叫び声を出さないよう食いしばるアリスだったが、青い瞳には涙が浮かんでいる。  その様子に男は満足気にうなずき、口端をゆがめた。  杖をゆっくり持ち上げ、再び突く。  カツン。  今度はアリスの足元にいくつもの幾何学模様が現れる。  カツン。  その模様は光り回りだす。  カツン、カツン。光は強く、回転は速く。  カツン、カツン、カツン。部屋の空気が渦巻く。勢いは増す。  カーテンは暴れ、窓はガタガタと震える。  侯爵は身を守ろうと執務机にしがみついた。  光と渦巻く風の中心でアリスの体は浮かび上がる。髪もドレスも乱れていたが、それに気を使う余裕などあるように見えなかった。  恐れで精神が耐えられなくなる寸前、男はひときわ強く突いた。    ガツン!    光は目を開けていられないほど輝き、アリスと共に消えた。残されたのは何も感じていない男、あっけに取られている侯爵。そして静寂。  アリスは世界から追放された。  どれほどの時が過ぎたのか。  土砂降りの中、アリスは薄暗い路地にうつぶせに倒れていた。髪は乱れ、光沢のあるドレスは水を吸い、ずっしりと圧し掛かる。 「ゲホッ!」  何度も肩を震わせ目を開ける。起き上がろうと水たまりに手をつくが顔を上げるのが精一杯の様子だった。石とも土とも区別がつかない高い壁に挟まれた路地からは夜とは思えないほど明るい大通りが見える。そこには多くの人が見慣れぬ衣服に身を包み、行き来していた。  一体、ここはどこだろうかと体を起こそうとした時、目眩(めまい)と吐気が彼女を襲う。体温を失ったせいだろうか、小刻みに震え、胸に手を当て、うずくまった。 「**、******?」  体を(たた)く雨がさえぎられ、聞いたこともない言葉を耳にして顔を上げると、黒髪の女性が心配そうに傘を差し出していた。  助かったかもしれない。その思いはアリスの意識を奪うのに十分だった。 「**! ***! ***!」  女性はアリスの肩を叩き声をかけ続ける。その切羽詰まった声を聞いた人が何人も路地に駆け込んできた。 ――二〇〇八年、冬の東京、そこがアリスの追放された地だ――
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