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俺は退屈なことが我慢できない。だから、美容院が大っ嫌いだ。
「予約でお待ちの浅野様ー」
「ッチ」
聞こえるように舌打ちをして、読んでいたくだらない雑誌を座っていた椅子に投げ捨てる。
俺が予約をしたのは13時、その時刻からもう15分も過ぎている。
「すみませんお待たせして」
ひょろっとしてやわそうな兄ちゃんが小走りでやってきた。
「ったくよー。これじゃ予約の意味ねーじゃねぇーかよ」
「大変申し訳ございません。すぐにお席案内いたします。まずはお荷物を」
そう言って美容師の兄ちゃんは俺から鞄と上着を預かり店の奥へと消えていく。
入り口から一番奥の席に通されたあと、兄ちゃんはもう一度謝ってきた。
「本当にすみませんでした、ちょっと店が混雑してまして」
「いやそっちの状況なんざしらねぇけどよ。とりあえずさっさと切ってくれ。この後予定あんだよ」
「はい、えー……今日はどういたしますか?」
「あぁ?いつもと同じだよ。店側で記録とかあんだろ」
「大変失礼致しました。えっ、と、前髪はおでこを出して横は耳に少しかかるくらい、……あと全体的に軽くするって感じでやらせてもらいます」
鏡越しの兄ちゃんは手元のファイルをペラペラめくっていた。
「そうだ浅野様、お飲み物出せるんですけどいかが致します?」
「飲み物?そんなサービスあったか?今まで聴いたことねぇぞ」
「ええ、実は最近はじめまして。本来有料なんですけどご迷惑をおかけ致しましたのでサービスさせていただきます」
「ほう、タダでいいんだな?」
兄ちゃんは頷き、歯を見せて笑った。
こういう風に誠意を見せられたら多少は気分が良くなる。いつまでも腹を立ててるのがみっともなく思えてきた。
この兄ちゃんが悪いわけじゃねぇしな……
膝をついて俺と目線を合わせるところも気に入った。
「んじゃもらおうかな。悪いね」
「いえいえ、とんでもないです。こちらメニューです」
「おうよ、サンキュ」
俺が頼んだホットコーヒーは容器一杯、並々に注がれていてそれを見た俺は更に上機嫌になった。
「さっき来店履歴見たんですけど浅野様随分前からこの店にいらしてますよね。ご愛顧いただきましてありがとうございます」
兄ちゃんがハサミを選びながら話しかけてくる。最初見た時はもやしみてぇにひょろっとしてて弱っちい印象だったけど、近くで見るとシュッとしててモテそうな見た目だ。
「近ぇってだけだけどな。俺がこの街に来てから2年ぐらいかな。ずっとここに世話になってる」
「そうなんですねー。僕も最近こっちに越してきたんですけどいいところですよねここ」
「まぁな。田舎だからなんもねぇけど、馴染むとそれが逆に良さにもなるんだよな」
準備が終わった兄ちゃんが俺の前に立っていた。タオルを首元に巻く最中、右胸にひっついている「神谷」と書かれた名札が視界に入った。妙に真新しい。
「そういやあんまこの店で見ない顔だけど兄ちゃん、新入りか?」
「ええ、先月からお世話になってますカミヤと申します」
手を止めて俺と目を合わせ、笑顔になった兄ちゃんはまた準備へ取り掛かる。
一つ一つの所作がえらく丁寧だ。
「カミヤさんね、あんた評判いいだろ。丁寧な接客が気持ちいい」
「えっ、ほんとですか?そういっていただけるとすごく嬉しいです」
「いやー、美容師ってやつを俺は信用してねぇんだけどあんたは別だわ。気に入った」
「ハハハ、確かに信用ならない見た目の人多いですものね。前の職場ではピンクの髪色した同僚がいましたよ」
「髪がチャラついてるやつ多いよな。俺は兄ちゃんみたいな黒髪の奴好きだぜ。ていうか俺は美容室ってのがそもそも好きじゃねぇのよ。髪切るのって時間かかるしその間暇だろ?俺退屈なことが嫌いだからさー」
当たり障りのない天気の話や興味の湧かない流行の話には反吐が出る。もうちょいマシなこと話せっていつも思う。
「あんたとだったら今日は退屈しないかもな。頼むよ兄ちゃん」
「ご期待に添えるよう頑張ります」
はにかんだ兄ちゃんの手には大きなハサミが握られていた。
「じゃあ切っていきますねー、あ、コーヒー預かりますよ」
俺が腕を伸ばすとカットクロスが擦れる音がシャリシャリとなる。半分ほどになったコーヒーは喫茶店で出ててもおかしくないぐらい美味しく、渡す前に惜しくなり一口分だけ急いで口に含んだ。
「こぼすといけないので蓋だけさせてもらいます。あとこれ、よければおしぼりどうぞ」
顔を拭くジェスチャーと共に差し出されたホカホカのおしぼり。ちょうど顔を拭きたかったところだからありがたい。でも……
「この店こんなサービスよかったっけ?今までおしぼりなんか出たことないぞ」
「あー、たしかにこれはマニュアルではないですね。『散髪以外にもお客様に必要なことを』が僕のモットーなんで」
「はー、大したもんだ」
顔を拭いたおしぼりを兄ちゃんに返す。
兄ちゃんは見たところ年は俺とそう変わらない、二十代そこそこだろう。なのに随分と立派な姿勢で仕事に取り組んでいる。
「なんだか兄ちゃんを見てると自分が恥ずかしくなる」
「そんなそんな。浅野様もご立派ですよ。聞きましたよ、お仕事でも責任のある立場を任されてるそうじゃないですか」
「はっ、ただの雇われ居酒屋店長だよ。オーナーの言うことをただ聞いて使われてるだけ」
「何をおっしゃいます、浅野様は人を使う立場ですよ」
「おいおい、随分持ち上げてくれるねぇ」
霧吹きで髪に水分を馴染ませている間、俺たちは仕事の話でひとしきり盛り上がった。
しばらくして、ハサミが閉じる音が一定のリズムで聞こえてくる。粉雪が舞うように俺の髪が上から降ってくる。
店内のBGMと混ざったハサミの音は耳障りでなく、むしろ心地いい音となって俺たちの会話を弾ませる。
「へー!プロレスって奥が深いんですね!」
「そーなんだよ兄ちゃん!あれはただのスポーツじゃねぇの!ドラマ、いや、人生模様なんだよプロレスってのは!」
プロレスの話をしている間は自然に身体が動いちまう。その度に兄ちゃんは俺の頭をそっと挟んで元の位置に戻す。
「でも浅野様プロレスの世代じゃないですよね?見たところ僕とそう変わらないと思うんですけど」
「兄ちゃんいくつ?」
「僕は24です」
「あー、じゃあ俺の二つ下か。まぁたしかに俺らが学生の頃ってプロレスなんか全く流行ってなかったもんな」
俺もプロレスを知ったきっかけは周りの友達からじゃなくて親父からだし。
親父が家で試合の録画をずっと見ていたから自然と俺も好きになったんだよなぁ。
「僕の同級生でプロレス好きって人は聞かなかったですね。浅野様の周りにはいました?学生時代に」
「うーん、学生の時ねぇ。いなかったなぁ」
「じゃあ高校時代は全くプロレスのことは話さなかったんですね」
高校時代、と聞いて思い出した。そういや高校の頃はプロレスの話してたこともあったな。
「そうだそうだ、確か高校時代だ。プロレスの話してたわ」
「へぇ」
「誰だったかなぁ……部活の同級生だと思うんだけど、部室でそんな話してた気がする。プロレスごっことかもしてたんじゃないかなぁ」
「ちなみに部活ってなにをやってたんですか?」
「ん?エアホッケーだよ。珍しいだろ」
一定のリズムで続いていたハサミの音が止まる。ハサミの種類を変えるようだ。
「へぇ、体育会系なんですね」
「まぁな、スポーツしかやってこなかったよ」
兄ちゃんが次に手に取ったハサミはさっきよりも二回りほど大きい。束になった髪の毛をまとめて切り落とせるほど太い刃面と指三本分の大きさの指穴。人の耳ぐらいなら切り落とせそうなハサミだ。
兄ちゃんは再度髪に水を振りかけて櫛で俺の髪を引っ張った。
ハサミの音が軽やかな音から壮重な音へと変わる。
少し眠くなる音だ。
「てかこれってまだ時間かかる?」
「そうですね、あと少しお時間いただきたいです。すみません」
「まぁしゃーねぇけどさ」
この兄ちゃんと話すのは楽しいけどいい加減飽きてきた。
「……さっきの話」
「え?」
「さっきの話、もっと聞かせてくださいよ。高校時代のプロレス話」
鏡越しに兄ちゃんと目があう。はにかんでから兄ちゃんはハサミの方に視線を戻した。
「もっとっつったってなぁ。基本的に俺が一方的に話して周りが聞いてたってだけだけど。あー、でも1人だけちゃんと話聞いてくれてたな、そいつマネージャーなんだけどよくスコアとか整理しながら俺の話聞いてたわ」
「優しいんですね、その方」
「ふっ、まぁな。たぶんあいつも興味なかったと思うんだけどずっと話は聞いてくれてた」
「プロレスは見に行かなかったんですか?」
「試合……あー!そういや一回だけいったわ。俺とそのマネージャーと、あと後輩連れて」
「後輩」
後輩ですか、と兄ちゃんは繰り返した。ハサミの音に負けてしまうような音量で。
「そうそう。きっかけはなんだっけな。確かその後輩と俺の好きなプロレスラーの名前が似てるっていうくだらねぇ理由だった気がするな。ダニーってレスラーなんだけどさ。とにかく、その後輩ともプロレスの話とか技の掛け合いとかしててよぉ。俺がどーしても見に行きたいっつって2人を連れて行ったんだよ」
「ついてきてくれたんですね」
「2人ともイヤイヤな」
「はっはっはっ。そりゃ興味なかったらそうなりますよ。でも着いてきてくれたんだから浅野様に人徳があったってことですね」
「どうだか。でもあの日は興奮したなぁ。間違いなく青春の大切な思い出だ」
「男3人の友情ってやつですね」
兄ちゃんはハサミを置いてドライヤーを取り出した。
「あっ、やべ」
「ん?どうした兄ちゃん」
「あぁすみません、大したことじゃないです。お顔用の剃刀をバックルームに置いてきてしまって。すぐに取ってきますのでコーヒーでも飲んでお待ちください」
「おいおい、頼むぜ。時間取らせんなよ」
俺は手渡されたコーヒーを受け取る。
「まぁこの美味いコーヒーに免じて許してやるよ」
「ははっ、助かります」
兄ちゃんは苦笑いしながら頭を掻いていた。それにしても憎めない顔してるよなこの兄ちゃん。
「これマジで美味いよ。あっ、そういやさっき話に出た高校時代のマネージャーもコーヒー好きなんだよ。今度話す時ここ紹介しとくわ」
「えっ?」
俺の言葉を聞いた瞬間、兄ちゃんから笑顔が消えており心底驚いたような表情をしている。
「その方とまだ繋がりがあるんですか?」
「まぁたまに呑む仲だな」
「というかここに通えるところに住んでるんですか?」
「お、おぉ。隣町に住んでるよあいつは」
兄ちゃんは矢継ぎ早に質問をして早口で捲し立ててきた。
なんだよ、急に。どうしたんだよ。
「そうなんですね。……すみません、新規お客様獲得のチャンスに思わずガッついちゃいました」
ははっ、と声を上げて兄ちゃんは笑った。
「なんだよびっくりした。急に態度変わったからどうしたのかって思ったぞ」
「すみませんねぇ。あ、そうだ。コーヒー、よかったらおかわり入れてきますよ。まだ飲んでませんよね?」
「いやまだ入ってるからいいよ」
「丁度挽き立てたコーヒーがあるんで。遠慮なさらず」
そういって兄ちゃんは俺の手からコーヒーを奪い返しバックルームに消えていった。
「すみません、お待たせしました。お熱いのでちょっと置いといた方が良さそうです」
コーヒーを鏡面台に置く兄ちゃんの右手、その袖口に血のような赤いシミが付いていた。
「ん?なんだそれ、さっきまでなかったよな」
「あぁ、これですか。バックルームに戻った時染料が付いちゃったんですかね。お見苦しくてすみません」
背後に周った兄ちゃんの方からカ、カ、カ、と細かい音が聞こえてきた。顔剃り用のクリームを作ってるらしい。
「さっきの話に戻るんですけど、素敵ですよね。学生時代の友人と今でも繋がりがあるって」
「確かになぁ、貴重な縁だ。一生モンの宝ってやつかもな。チームメイトもだし、あの頃経験した辛い練習もな。学生時代の部活が今にいきてる気はするなぁ」
「そうなんですか?」
「おう。ほら、仕事って辛い時あんじゃん?でも俺は「夏休みのきつい練習よりマシだ」って自分を奮い立たせんだよ。仲間と乗り越えたきつい日々や先輩に助けてもらったこと、努力したからこそ勝てた試合とかが今になっても俺を支えてくれてる。あの頃の思い出はほんと宝物だ」
兄ちゃんはクサイ台詞を吐いた俺に何も言わず、泡立てた顔剃りクリームを一旦置き適温に冷めたコーヒーを手に取って俺に渡してくれた。
わざわざ冷めた頃を見計らって渡してくれるなんて、本当にこの兄ちゃんは気が利くやつだ。
「兄ちゃんはねぇのか、そういう話」
コーヒーを飲む。やっぱり美味い。
「僕ですか?そうですねぇ」
再び背後に回った兄ちゃん。ひんやりとしたクリームが耳の付け根から顎に向けて丁寧に塗られていく。
「……僕って気が利くんですよ」
「なんだよ兄ちゃん。自画自賛か」
思わぬ発言に笑いを噛み殺してコーヒーで流し込む。キャラに合わねぇこと急に言うからびっくりした。
「いやでもそれは認めるよ。兄ちゃんは気が利く。それでいて誠実で気持ちのいい好青年って感じだ」
「誠実、ねぇ」
俺の言葉を繰り返したあと、兄ちゃんは今までにない笑い方をした。嫌な含み笑いだった。
「なんで僕が気が利くかっていうとね、ずっと気を遣ってたからなんですよね、高校の部活で一個上の先輩に」
「一個上の先輩?」
「体育会気質っていうんですかね。その先輩は僕が至らないとすぐに怒ってきました。練習に身が入ってないとか、飲み物が出てないとか、俺の会話への相槌が少ないとか。所謂可愛がりって名前の暴力をたくさん受けてきましたよ。……他人に気を遣うっていうことが体に染み付いてしまうほどに」
BGMの音量が下がったような気がしたが違った。兄ちゃんの声がさっきより大きくなっていたんだ。
「兄ちゃん?」
振り返ると兄ちゃんは力なく笑った。すぐに俺から目を逸らし、兄ちゃんはカミソリの刃先を見つめながら「高校の部活。浅野様にとって宝物だったものが、僕にとっては呪いでした」と呟いた。
「辛いことがあったんだな」
俺はコーヒーをまた一口飲んでから続けた。
「でもものは考えようでさぁ、俺と同じでその過去があったから今の兄ちゃんがあるってことでもあるだろ?俺は今の兄ちゃん好きだぜ。過去は変えられないんだからそんなこと気にしてもしゃあないだろ。大事なのは今何をするかじゃん?」
鏡に映る兄ちゃんの手が止まった。一泊置いてから、兄ちゃんはまた口角を上げて「その考え方はなかったですね」と笑った。
「浅野様、すみません。退屈させないと言っておきながらこんな話を聞かせてしまい」
「まぁつまんない話であったけど気にすんなよ。というか兄ちゃんもあれだぞ、いつまでもその先輩とやらを恨んでても意味ねぇからな」
空気を軽くするために軽口を叩く。でも笑っているのは俺一人だった。
兄ちゃんは剃り終わった顔を拭き、三度ハサミに手を伸ばす。
「浅野様、僕はその先輩だけを恨んでるわけではないんです」
「えっ?」
「僕がそもそも一つ上の先輩に目をつけられたのは、先輩の先輩が僕のことをおもちゃにしていたからです」
「おもちゃ……?」
「ええ。その人は僕が部活に入った時のキャプテンだった人なんですけどね。聞いてくださいよ浅野様。その人僕が興味ないって言ってるのに自分の趣味を押し付けてくる人なんですよ。ひどい時は興味のない試合のチケットを高値で売りつけてきたりもしました」
鳩尾のあたりがサワサワとする。俺はとりあえずコーヒーをもう一口飲んだ。
「キャプテンと、あと怪我で現役引退した副キャプテンのマネージャーの二人には日常的に暴力を振るわれてました。ギロチンチョークとかジャンピングドロップとか三角絞めとか」
兄ちゃんが暴力と行ったそれは……それは全部プロレス技だった。
「きっかけはなんでしたっけね。確かその先輩の好きなプロレスラーの名前が僕と似てるっていうくだらなき理由だった気がします」
聞き覚えがある、どころじゃない。その理由はつい数十分前に俺がした話だ。
「浅野様さっきおっしゃってくれましたよね、僕が誠実って……すみません、僕は誠実なんかじゃないんです。今日の会話だけで嘘を二つもついてます」
「……嘘?」
兄ちゃんは自分の名札を指さした。
「僕の名前はカミヤじゃなくてジンタニです。ダニー・ジン選手と名前似てますかね?」
手首から肩の先まで一気に鳥肌が立つ。規則的になるハサミの音に気が狂いそうになる。
「お、お前、ぶ、部活は何やってたんだよ」
「エアホッケー部です。珍しいでしょ?」
尚もハサミの音が続く。そのハサミの音を掻き消すぐらい俺の心臓は脈打っていた。
「……もう一つはなんだ?」
「もう一つ?」
「とぼけんなよ!2つ嘘ついたって言ったろ!」
「……浅野様、メルファロドンって物質知ってます?」
「しらねぇよ、なんだよそれ」
「これがなかなか面白い物質でね。この物質、特定条件下で発光作用があるんですよ。カフェインに反応して赤く光るんですけど、その時に物質の性質が変化するんです」
「だからしらねぇって。それがなんなんだよ」
「平たく言うとメルファロドンはカフェインと混ぜた場合毒薬になるんです。ガムシロップ一個分ぐらいで致死量となる、強力な」
鏡に映る兄ちゃんの目線、その目線が鏡面台自身へと映った。そこにはガムシロップの容器と……俺が口にしてたコーヒーカップが置いてある。
「ええと、もう一つの嘘でしたっけ。貴方が美味い美味いと飲んでいたコーヒーなんですけどね、……この店で飲食のサービスなんてやってないんですよ」
カフェインによって赤く染まる毒薬、ガムシロップ一個分で致死量。そしてあの目線。
「はなせ!」
俺は立ち上がり、コーヒーの蓋を開ける。
残り少ないそのコーヒーは…………普通に黒色だった。
「赤く……ない?」
「浅野様、散髪終了しましたよ」
「へっ?」
振り返ると、胸の高さに二面鏡を抱えた兄ちゃんが笑っていた。
「ど、どういうこった?って、終わり?散髪が?いつのまに」
「時間を忘れるくらい僕の話に夢中になってくれてありがとうございます。退屈しませんでしたか、僕の作り話」
「つく、り……え?作り話?」
「ええ、全部作り話です」
「でも、え?あれ、名前とかコーヒーとか嘘ついてたって」
「それが嘘です。僕は正真正銘カミヤですし飲み物サービスもウチで先月始まったサービスです。あ、タダっていうのは本当ですよ?」
呆気に取られて言葉が出てこない。つまり、コーヒーがタダになるってこと以外は嘘話ってことか?
「どうやら退屈してない様子でほっとしました」
そう言いながら兄ちゃんはクスクスと口元を隠しながら笑っていた。
そして二面鏡に映る俺の髪の毛は綺麗に整えられていた。
「おーい!勘弁しろよぉ〜!まじ焦ったじゃん!」
「はははっ、すみません意地悪なことをして。そうだ、お詫びも兼ねて当店自慢のコーヒー豆を持っていくので今度そのマネージャーさんにも合わせてくださいよ。浅野様のお店にお邪魔しますよ」
「そうだなぁ、あいつも呼んどくからぜひきてくれ。大層なおもてなしをされたからな、今度はこっちの番だ」
指を鳴らすジェスチャーをすると、兄ちゃんは大声を出して笑った。
結局、今日はこの兄ちゃんの手のひらの上だったってわけだ。
「じゃあ申し訳ないんですけどお会計お願いします。レジまで案内しますね」
兄ちゃんが手のひらでレジを指している、その右袖についた染料が目に入る。あれ、なんだろ、なんか気になるな?
「さ、いきましょう。それにしても楽しみですね、マネージャーさんにお会いするの。僕今からワクワクしてますよ」
「お、おう」
まぁいいや。気のせいだろう。
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