金色の犬

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「なんでだよっ」  朝、目を覚まし、何はさておき、枕元のスマートフォンをチェック。そうして、自分が持つアカウント名の左横に、無情にも表示された薄水色の小さな丸を発見してしまっては、僕の口からは悪態と舌打ちしか出ない。  最悪な気分で布団から離脱し、無意識の習慣としての歯磨きを行いながら、僕は過去一ヶ月間の自らの行いを振り返る。  新しいアカウントを取得して以後、僕は何を間違えた?僕の言動、行動に、どんな落ち度があったのだろうか?あのリプライ?あの「いいね」?それとも、出先で出会った風景を写した、あの画像のアップロードだろうか?  結局、これといった原因も思い当たらないまま、えずき、洗面台に泡混じりの唾を吐き出した。 「なんでだよ」  寝起きに言った一言をまた繰り返しながら、鏡を見た。ボサボサの寝癖に、涙目の目の下の隈に、二十四時間分の薄く生えた髭。そう、これこそ、考えの見えないシステムにただただ翻弄されてばかりの、どこにでもいる三十路男の姿だ。  陰謀論。その昔、それは大体の人間にとって、きわどくも失笑を買う法螺話。そう考えてもいい類のものだった。  それが、いつの頃からか、様子が変わった。どう考えてみても真実とは到底思えない、理屈の通らないとんでも話が、政治や社会、経済に影響を及ぼすようになった。そんな話、信じる人間が愚かなのだ。そんな風に切り捨て静観してばかりはいられない状況になってから、ようやく、支配層に属する人々は動き始めた。  独裁国家と化している国の対応は早かった。人々の口を封じる法律を次々と成立させ、表向きにはネット上の平穏を取り戻した。  民主主義を標榜する国々の対応は、言論の自由との兼ね合いで大幅に遅れた。結局、陰謀論の完全な封じ込めは断念され、代わりに、発言者の信用度の目安を提供するという目的でとあるソフトウェア会社が開発した、アカウント信用度判定システムが多くの国で採用された。  そのシステムとは、対象となるアカウントから発信されたメッセージ、画像、他のSNS利用者に対するリアクション等のデータを集積し、それらのデータから人工知能が対象アカウントの信用度を判定し格付けするというものだった。  人工知能が下した格付けの結果は、多言語多文化多国籍に利用されるサービスであることから視認性が重視され、色で表された。  まず、どのようなアプリケーションであれ、アカウントを新しく取得すると、アカウント名の横に黒い線で縁取られた白い丸が表示された。そのアカウントから信用度の高いと判断される発信が続くと、アカウント名の横の丸は、徐々に黄味を増していった。逆に、信用度が低いと判断される発信が繰り返されると、丸の色は段々と青くなっていった。  そのうちに、丸の色と、その色を付けられたアカウントは、ユーザーたちに通称で呼ばれるようになった。取得したてのまっ白な状態は、「白羊」。信用度がいくらか上がり黄色く薄く色づくと、「象牙羊」。更に黄味が強くなると、「鳥の子羊」、「黄羊」。そうして、最も信用度の高い濃い黄土色の印は、「金色犬」または「牧羊犬」、それらを省略して「犬」とも呼ばれた。  反対に、信用度が下がり丸の色が青みがかってくると、薄いうちは「浅葱羊」「水色羊」、それより濃くなると「青羊」。最も信用できない危険なアカウントと判定された暗い青の丸印は、「鈍色狼」と称され、それを略して単に「狼」とも呼ばれた。  この信用度判定システムが世界規模で採用されて最初のうち、格付けの割合は、大半の利用者は白羊か象牙羊か鳥の子羊、それなりに浅葱羊、ちらほら水色羊、稀に黄羊青羊、滅多に見ない金色犬と鈍色狼、という塩梅だった。  だが、人工知能の判定は次第に厳しくなっていき、青味よりに判定されるアカウントが増えていった。そうして、今や信用度がより高いとされる黄味がかったアカウントは全体の二割、一割が取得したての白、残りの七割は信用度がより低いと判定される浅葱色から鈍色のアカウントといった具合に変化した。  自分のアカウントが青色に染まるのを嫌がり、取得したアカウントを積極的に使わないユーザーも多くなったが、そういう場合でも、不正利用の疑いありと判定され、容赦なく青い印が付けられたので、青色アカウントの増加は止まらなかった。  もちろん、信用度判定システムを使わないという選択肢も、選べない訳ではなかった。だが、世界共通の最もわかり易い基準として採用されたシステムを、仮想と現実の境界が曖昧になった昨今、利用しない者は殆どいなかった。インターネット上での信用度により、社会に対する影響力は変わり、また、それによって入ってくる報酬も、受けられる融資なども違ったからだ。  人々は今や、己のアカウントに黄色の、できれば金色の印をつけてもらおうと、誰もが躍起になっていた。 「なぁ。二年の時に俺らと同じクラスだった、樅山(もみやま)って憶えてるか?」  地元で就職した高校時代の友人が、本社に出張だとかで上京してきた。そうして居酒屋で落ち合った彼が、これといった前置きもなく唐突に、赤い顔でチューハイ片手に言った。 「……うっすらと。なんか、おとなしいタイプのヤツだったよな。」 「そう、多分、そいつ。その樅山がさ、なんと、『金色の犬』んなってんだよ」 「え……」  今や、金色の丸印が許されているのは、信用度判定システムの利用ユーザーのうち、0.1パーセントにも満たないと言われている。その多くが政府、大企業、体制寄りの著名人といった中で、一般の人が「金色の犬」の称号を得ているとは、ちょっと聞かない話だった。 「このあいだ、卒業名簿の名前、片っ端から調べてったら、ヒットしてさ」 「お前、そんなことやってんのかよ」 「なんだよ。そんなこと、みんなやってるよ。金色はまず、本名でアカウント作ってないと、もらえないからな。で、あの樅山だろ?まさか、ああいうタイプが『犬』になってるなんてって、プロフィールの経歴見たけど、やっぱり本人らしいんだよ」 「ふぅん」  自分の胸の内に、嫉妬という煩わしい感情の気配を感じた僕は、壁のお品書きを眺め、あえて興味の無い顔をしてみせた。 「でさ、フォローしてフォロバ頼んだら、ブロックされた」 「お前…高校ん時、樅山のこと馬鹿にしてた癖に、よくフォローなんかするな」 「そりゃするだろ。『犬』と繋がり持てたら、かなり判定よくなるもん」  「もん」とこられては呆れ返ってしまい、「お前にはプライドが無いのか」という台詞も出てこない。 「ほら、これ、樅山のアカウント」  頼んでもいないのに、友人は自分のスマートフォンをこちら側に突き出してきた。ブロックされたというのに、まだ樅山のプロフィールが見られるということは、他のアカウントを使って、しつこくフォローしているのだろう。付き合ってやっている体で画面を横目で見ると、アカウント名の上部に、少年の頃よりも顔の線が大分厳しくなったらしい、樅山の姿があった。  僕の自宅の棚には、開かずの靴箱がひとつ、ある。中身は、高校時代に借りたままの、当時の新刊であった文芸書が三冊。実は、その本の持ち主は、旧友との話に出た樅山、その人だ。  樅山と僕は、クラスの教室内においては、とくに親しい交流は持たなかった。だが、僕が友人グループから離れ、一人、学校の図書室を訪れた時に度々遭遇していたのが、彼だった。  彼とは、読書の趣味で意気投合した。今、僕の手元の靴箱に存在する三冊の本も、高校生だった当時、図書室では予約が埋まって中々借りられなかった新刊を、樅山が僕に貸してくれたものだ。しかし、本を借りてから数週間後、樅山は学校に来なくなってしまい、それ以来、返しそびれたままの状態になっていた。  その夏の盆休み、僕は借りた本三冊を靴箱ごと持って帰省した。  樅山の実家は、僕の実家から二駅離れた場所にあった。盆休みの間に帰省ついでに足を延ばし、運が良ければ帰省中の樅山に直接会えるかもしれないし、そうでなくても、彼の両親に本を渡せば、僕が大昔の借り物を返しに来たと伝えてもらえるだろう。  そう、さんざん旧友を馬鹿にはしたが、結局僕も、「犬」との繋がりが欲しいのだ。だって、この社会を生きるには、「信用」は何より大事だし、使える。  僕には付き合って三年になる彼女がいる。その彼女とは結婚も考えていて、そうとなれば家庭を持つにあたり、「犬」と繋がりがあればローンを組んだり、大きな契約をしたり等々、いろいろ便利なのだ。  地元に帰り実家に一晩泊まって、その翌日の、蒸し暑い昼下がり、僕は地元の私鉄に乗って、樅山の実家を訪れた。  下町にある庶民的な僕の実家とは違い、樅山の実家は、広めの敷地を高い塀が囲む高級住宅ばかりの地域にあり、そうして、そういった近所の家々にじゅうぶん見劣りしない佇まいをしていた。  玄関チャイムを鳴らすと、インターフォンで応答したのは樅山の母親らしい女性の声だった。僕が自分の名前と、彼女の息子との関係、借りていた本を十年以上ぶりに返しに来たという用件を伝えると、インターフォンの向こうでは、しばしの間、沈黙が落ちた。 「あの…」 「少々、お待ちください」  それから、二分は待っただろうか。玄関のドアを開けたのはブランドのポロシャツを着た六十代と思われる男性で、その後ろに続く廊下には、男性と同じくらいの年頃に見える女性が立っていた。 「あの、こんにちは」 「どうも。あの子の父親です」  僕は、実家から借りたエコバックで持ってきた靴箱を取り出した。そうして、男性の前で箱の蓋を開け、中身を見せた。 「これ、息子さんからお借りしていた本です」 「どうも。わざわざ、ありがとうございました」  樅山の父親は不愛想に形だけの礼を言って、箱を奪うように受け取ると、すぐに家の中に引き返し、玄関ドアを閉めようとした。 「あの、樅山くんは、お元気ですか?いま、どうされてるんです?」  このままでは、ろくに僕のことを伝えてもらえなさそうで、僕は慌てて引き留めるように、殊更早口で言った。すると、もう僕に八割以上、背を向けていた樅山の父親が、ぎこちなく動きを止めた。しかし、ただそれだけで、僕の方を振り返るでも、僕に何かを言ってくるでもなかった。代わりに、奥にいた女性が僕の質問に答えた。 「あの子が今、どうしているのか、私たちも知らないんです。…あなた、せっかくわざわざ来てくださったんですから、上がっていただきましょう」  樅山の父親は半分唸るように返事をすると、玄関を大きく開き、僕を家に招き入れた。  その後、三十分程度、僕は出されたアイスティーを前に、高校時代の樅山少年との思い出を、彼の両親の前で記憶を手繰りつつ話した。殆どが、彼が好きだった本の話題だったが、両親はそれでも、寧ろ、かえって満足した風であった。  僕が話してばかりで、樅山の両親の口から彼のことを聞いたのはただ、就職して二ヶ月経ったあたりから息子と連絡が取れなくなり、それきりになったという、それだけだった。  僕は、少し迷ったが、樅山がインターネット上で著名人並みのフォロワーを持つ人物になっていると伝えた。だが、その件に関しては、彼の両親は既に知っていた。 「これねぇ。本当にあの子なんでしょうか?」  僕が何時だったかの旧友と同じように、自分のスマートフォンで差し出して画面を見せると、樅山の母親は、例のプロフィール画面をまともに見ることもなく、ただ戸惑っている様子だった。 「でも、信用度のマークがほら、金色でしょう。これって、とても信用度が高いアカウントって意味なんです。本人が使ってなきゃ、ぜったいつかないヤツですから」 「でもねぇ。これ、私も見てみましたけど、他人事の批判やら賛同ばかりで、自分がどこにいるのか、何をしているのか、そういうこと、ちっとも書いてないんですよね」 「でも、そういうの書いちゃうと、個人情報保護の問題がありますから」  僕は説明したが、樅山の母親はスマートフォンの画面から目を背け、黙り込んでしまった。 「本当に、どうかしている」  それまであまり喋らなかった樅山の父親が突然、吐き捨てるように言った。それは多分、僕だけに言ったのではなかった。  それからのことだ。社会では、想定外のことが起こった。  誰にとっての想定外かと言えば、主に、政府とか大企業とか社会的に影響力のあるされる人たちとか、そういう、庶民には近づき難い組織や人たちにとってだった。何が起きたかというと、彼らのアカウント名の横できらきらと輝いていた金色の印が、青く色褪せていったのだった。  人々は、由緒正しきあらゆる権威よりも、アカウント信用度判定システムを信用した。様々な情報や意見を知り、自分で考え判断を下すより、黄色から青の、色のグラデーションを見た方が楽で、手っ取り早かったからだ。  強欲な人間よりも、誠実な人工知能に判断を任せよう。そう主張するアカウントばかりが次々と黄味を濃くし、それ以外のアカウントは鈍色化していった。  ある日、その日は来た。アカウント信用度判定システムを提供していたソフトウェア会社が、自社で開発した人工知能に致命的な欠陥があったことを認め、それを公にしたのだ。  発表があって後、一時間以内に、この世に存在する全てのアカウントから格付けの印が消え去った。  僕は、信用度判定システムが廃止されて以来更新が止まり、金色の印も大部分のフォロワーも失った樅山のアカウントを、未だにフォローしている。  先日、彼にメッセージを送った。内容は、自分が高校時代の読書友達であること。それから、まだ返していなかった本が、部屋の本棚から新たにまた一冊発掘されたので、会って返せる機会が持てれば嬉しいということ。  樅山のアカウントからは今のところ、返事もその他のリアクションも、何もない。
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