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見慣れない天井。硬い感触、薄暗い部屋、血なまぐさい臭い。体中に痛みを感じる。痛みで目が覚め、ようやく恐怖を覚えた。上体を起こし、周りを見渡す。
牢屋みたいな鉄格子が前方にあり、後ろ左右は地面と同じコンクリートであった。地面に手をつくとひんやりと冷たい。ゆっくりと立ち上がり、鉄格子の方へ近づこうとしたその時――何かに足を掴まれた。コンクリートのように冷たい何か。
反射的に振り返って足元を見ると人が倒れていた。その人は私に縋るように足を掴んでいた。骨の輪郭が浮き出ているほどやせ細っている。死体と言っても過言ではないそれを目の当たりにして恐怖で声も出なかった。足を掴む手は細いくせに力強く、振り払おうとしてもダメだった。パニックになり意味もなく涙を流し、口をパクパクさせ、鉄格子へ手を伸ばした。
生きた死体は右手で足を掴み、左手で地面を這って来る。長い髪が揺れ、隙間から微かに顔が見えた。そうしてそれが元カノだと気がついた。
「わタシヲ置イて行かナイデ。寂シイ。怖イ。痛イのわイや! わたシわ死ンジゃうノ? わたしは死ニたくない。ネエ!」
数年前の大災害で、僕は彼女を見殺しにした。彼女は瓦礫で足を負傷していた上に、引っ張り出すのは困難であった。自分が生きるために逃げた。彼女の伸ばす手を、叫ぶ声を、流す涙を、無視した。
ここは断罪の部屋なのかもしれない。
蘇る記憶の数々。
彼女が足にしがみついた。
鉄格子の向こうから足音が聞こえる。それが近づくにつれて地面が揺れている気がした。
「勉強シなサーイ!」
心に蔓延る後悔たち。高校受験の時、もっと勉強すればよかったという後悔だ。
後悔に殺される気がした。でも、逃げようがない。追い討ちのように部屋の隅から女の人が歩いてきた。
「ゴメンなサイ。アなタのコと嫌イなノ」
告白しなければよかったという後悔。
「ホら、マタ失敗シた」
「明日デイイヤ」
「ドうセ」
「メンどくサイ」
外から聞こえる小さな後悔たちの声。
――明日は結婚式だというのに、どうしてここで死ななければならないのか。
やっとの思いで掴んだ幸せを、ただの後悔に潰されてたまるものか。
元カノを思い切り蹴り飛ばす。腕が折れ、悲鳴を上げる。そんなのはお構い無しで、好きだった人を殴り、壁に体当たりした。
壁はボロボロと崩れ、光が見えた。背後から追ってくる後悔たちへ別れを告げ、先へ進んだ。
これで悩むことは何もない。元の世界へ戻り、幸せな結婚生活を送るのだ。
「こノ人ト結婚シてイイノか?」
前から自分が歩いてきた。答えは簡単なのに、即答できない自分がいた。これは後悔ではなく、後悔になるであろう分岐点なのだと思う。
「ドうなンダ!」
「結婚する。大丈夫」
「そウカ。せイゼい後悔すルとイイ」
――目を開くと妻の寝顔があった。
「大丈夫。君のことは絶対に殴らない」
そう誓い、彼女の頬を撫でた。
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