霧の中でもその花は

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「桜餅って、葉っぱも食えるっけ?」  宗一は10日かけて丁寧に塩漬けにされたそれを見つめたまま聞いてきた。 「うん」  私は洗濯物を畳みながらそう答えた。  窓の外は雨が降り続いている。やっと気温は上がってきたが、このところ雨続きで、部屋干ししていたこのシャツもしっとりと湿気を帯びている気がする。  宗一はお茶を飲むと、残りの餅を葉っぱごと一気に口へ放り込んだ。そうして餡の付いた指を舐めながら、テーブルに伏せてあった携帯を取っていじりだした。  同棲を始めて9年目、私たちの会話はこれで終わりのようだ。  これどこで買ってきたの、とか、もしかして作ったの、とか、そういう言葉はもう私には必要ないと思っているのだろうか。  自分からはおよそ離れそうもない、何もしなくても永遠にただ側に居て、結婚はしていないけど女に飢えているわけではないという面子を保つことができる便利なアイテム。  そして、そういうご機嫌取りみたいな言葉は、そのアイテムを使って自分を借り手が間もなくついてしまう良物件のようにみせることで寄ってきた若い女たちにだけ使えばいいと思っているのだ。  携帯を両手の指で高速で打つかすかな音が、妙に耳にこびりつく。重力に身を任せてトロンと垂れ下がったそのだらしない顔で、一体今度は誰に狙いを定めているのだろう。 「お風呂、沸かしてあるから先に入りなよ」 「え? あ、ああ」  話しかけると、慌ててチャットの画面をスライドさせ、電子漫画のアプリをスクロールしだした。だがその間にも、画面上部にはチャットの相手からの通知がいくつも表示されていく。  流石に何と書いてあるかは分からないが、語尾についている真っ赤なハートマークは、私が近くに居ると思っている相手もあえて使っているのだろう。  宗一は目に見えて焦った様子でそれを素早く消し、ちらりとこちらを見たので、私は洗濯物についていた毛玉を取るのに集中しているふりをしてあげた。    残っていたお茶を一気に飲み干すと、宗一は携帯を持ったままそろそろと風呂場へ向かっていく。 「ああ、そうだ。買い忘れがあったからちょっとコンビニ行ってくるけど」  すっかり油断しているその横顔に話しかけると、ピクリとこめかみの辺りが動いた。 「あー、じゃあタバコ買ってきて」  こちらを見ずにそう言い残し、宗一は部屋を出ていった。内容とは裏腹に、その声はいたずらがバレそうな時の子供のようなかすかな上ずりがあったが、今ではもう少しもかわいいとは思えなかった。  立ち上がり、当然のようにテーブルに置いたままの皿とコップを流しに持っていく。せっかく心を込めて作ったのに、見た目も味も、感想の一つもなかったなと思いながら、いつもよりも丁寧にそれを洗った。    外に出ると、雨は一層強まっていた。最寄りのコンビニへは徒歩だと10分ほどかかる。お気に入りのオレンジの傘を選んで、いつもよりもゆっくりと歩いた。  別れてしまえばいいのにとは自分でもよく思った。だが、9年間という月日は30歳を過ぎた私の肩に食い込むほど重たくのしかかり、簡単に降ろせない枷になっていた。  それに彼の浮気癖は今に始まったことではない。何度も似たようなことがあり、その度にのらりくらりとかわされてきた。  別れるという選択肢は、その度に胃に穴が空きそうな想いをしつつも何とか見て見ぬふりを続けてきた自分自身の頑張りを否定してしまうものだと思えて、どうしても選べなかったのだ。  コンビニに入ると、私は端の棚からじっくりと商品を眺めていった。  この商品にも、この商品にも、彼に関連する思い出がある。付き合って間もない頃にデートの待ち合わせ直前で伝線に気づいて慌てて買ったストッキングだとか、ネットで流行っているのを真似して二人でアレンジ調理して食べたお菓子だとか、些細なことだけど全部思い出せる。  自分の欲しいものを手に取ってレジへ行き、宗一がいつも吸っているタバコの番号を伝えた。私はタバコが苦手だが、いつも代わりに買いに来ているから、表を見なくてももう覚えてしまっていた。  コンビニを出ると雨は幾分か弱まっていた。私はちょっと子供っぽい花柄のワンポイントがついた傘を広げて歩き出す。そして、ある場所で足を止めた。  古い民家の玄関先に、目覚めるような青の紫陽花が咲いている。 「ありがとうございました」  私は花に向かって頭を下げる。そうしてもう一度その青色を見た時、私の心はすっと晴れたような気がした。  紫陽花という植物に特別な秘密があるのを知ったのはつい先日だ。テレビでそんな雑学が出たのをなんとなく見ていたのだ。  その時も宗一は一緒にテレビの前に座っていたが、携帯に夢中な彼との会話はやはり特になかった。  そして2週間ほど前、私は一人でこの道を歩いていた。その時は確かさっきの女が送ってきたハートマークを初めて目の当たりにした日だった。  私は宗一と一度ちゃんと話がしたいと思ってコンビニに誘った。歩きながらの方がお互い冷静でいられると思ったのだ。  でも、梅雨に入ったばかりのその日も雨が降っていて、宗一は面倒だとそれを断った。 「どうせ行くなら、ついでにタバコ買ってきて」  そうしてかなり遅い時間にもかかわらず、私は一人でこの道を歩くはめになったのだ。  宗一の浮気は最近鳴を潜めていたため、久々の出来事に私はかなり暗い気持ちになっていた。  コンビニの棚を見て気分を変えることもできず、むしろより一層落ち込んで、俯き気味にとぼとぼと帰り道を歩く私の視界に突然真っ青な花が飛び込んできたのだ。  それが、この紫陽花だった。  紫陽花は街灯にぼんやりと照らされて、霧状になった雨も相まって、まるでそこだけこの世のものではないかのように思えた。その奥の方から今にも光に包まれたお釈迦様が現れて、私に声をかけてくれるのではないか。  そんなことを考えながら見惚れているうちにふと、先程のテレビのことを思い出した。  紫陽花の葉には毒がある。紫陽花の葉には毒がある。  テレビ画面の中で、得意顔でそう言っていた人の言葉が頭の中にこだました。  気がつくと、私の手は一枚の葉をむしりとっていた。  毒と言っても人を殺せるほどではない。せいぜいめまいや吐き気を催す程度だ。  だから、私は風呂を沸かしておいた。宗一が一番好きな、長く入れるぐらいのぬるま湯で、いつもよりも水かさは多めに。  風呂の中まで携帯を連れて行く宗一は、きっと今頃心置きなくチャットのやり取りを楽しんでいることだろう。  彼の運が強ければ、気分が悪くなる前に風呂を上がり、数日間苦しむだけで済む。もしも、私の運が強ければ……。  葉っぱを一枚“誤って”食べてしまっただけでどのくらいになるかは分からないが、過去には呼吸や歩行が困難になった例もあるようだった。  凛として咲くその花は、容赦無く振り続ける雨の中でもより一層美しく見えた。  私はくるりと方向転換をして、家と逆の方向に歩き出した。  せっかくの日曜の午後に外に出たのに、コンビニにしか行かないのはもったいない。幸いなまものは買っていない。良い機会だしずっと行きたかったあのブックカフェへ行ってみよう。  携帯は“忘れて”きてしまったけれど、きっと遅くなっても彼は文句を言わないはずだ。  読書だとか、雑学だとか、宗一はそういうものに一切興味がなかった。それから、風情をたのしむという気持ちにもならないようだった。  どんなに私が勧めても、何年一緒にいてもそんな所は変わらなかった。  そういうものへの関心が少しでもあったなら、私が苦心して作ったあの薄青色の和菓子が、季節外れの桜餅ではなく、紫陽花餅であることに気づけたかもしれないのに。  そして、もっと私と会話をしようとしていれば、いつもと少し風味の違うその濃いお茶が、紫陽花の親戚の葉を使った甘茶であることも知れたかもしれないのに。  やがて雨は霧になり、辺りは薄暗くなってきた。  私は宗一にもらった傘をゴミ置き場にそっと立てかけて、真っ直ぐの道を歩き続けた。
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