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十三.私情
仕事に私情を挟んではいけない。そう努めてこれまでやってきたのに今、私は私情を挟んでいる。
いや、挟まざる得ないと言った方が正しいのかもしれない。
そうやって正当化しているが、本来は客観視をする立場にあり、流されている場合ではない。
事情を知らない他の当事者は、当たり前のように会話をしている。しかし私の手にはじっとりと手汗が浮かび、笑顔も引きつっている。契約の最終局面で、慎重に協議をしなければならないはずなのにいまいち集中できていない。
私欲を借りるのならば、その契約を白紙に戻したい。
しかし自社のためを思うのならば、強行してでも契約をしなければならない。発展させるためには、必要不可欠な契約なのである。
私欲が邪魔をして、注意力散漫にしてくる。
相変わらず、目の前の彼女に惹かれてしまう。後ろ髪を引かれているが、彼女との関係は、一ヶ月前に終焉している。
彼女との出会いは、知り合いに誘われた食事会だった。行きたかったお店だったため、即座に参加の意思を表明した。
食事会自体は、美味しい料理とお酒があれば、そこまで嫌いじゃない。むしろ、自分の立場を知らない人間と会えることは気楽でもあった。名刺交換しない社交場は、素の自分をさらけ出すのにうってつけで、気張らなくていい。
店に到着すると知人が二人おり、見知らぬ顔が数名あった。
特に不思議なことではない。共通の趣味を持つ懇親会と思えば、一般的なのである。
お酒が出る場とあって、年齢は二十代半ばから三十代後半くらいだったと思う。そう年齢層が遠くないこともあり、会話は盛り上がった。
ビジネスの話は一切しない。それがこの会のルールでもあった。
料理は美味しいし、お酒のセンスも悪くない。ほろ酔いになった私は、隣にいた彼女に声を掛けた。
「そのピアス、お洒落ね。すごく似合ってる」
「ありがとう。実は日本には売ってなくて、海外に行ったときにいつも買って帰ってくるブランドなの」
「お気入りなのね。羨ましいわ」
「よければ、一つ差し上げましょうか? 何個か同じデザインのものを持っているので」
「初対面の人に渡すより、大切にしておいた方がいいわ」
「でも私より似合いそう」
そういって半ば強引に彼女から連絡先を聞いてきた。酔った勢いで、完全なプライベートな連絡先を教えてしまった。悪い人と疑っているわけではない。ただ下心が、自制心に勝った。
彼女は私が好きな見た目をしていた。
鼻筋が伸びて、切れ長の流し目にオレンジブラウンの髪色は、肩に少し掛かるくらいに整えられている。ネイルはペールトーンのサーモンピンクで、指輪はしていない。ぽってりとした厚い唇には、薄めのピンクのグロスが光沢よく輝いていた。
耳に髪はかけられ、揺れるピアスはピングゴールドのウインドウチャイムのように目を引いた。
オフィスカジュアルを着こなし、丸の内OLのようでいて、それ以上の風格と品が彼女には備わっていた。
純粋に興味が湧いた。
どんな仕事をしているのだろう。そう思っても聞かないことになっている食事会では、口にすることはなかった。
相手の職業を聞くということは、こちらも言わなければならない。それは都合が悪く、私自身詮索されたくなかった。
「こうしてまた会えるとは、思ってもいなかった」
「こちらこそ、連絡もらえて嬉しいわ」
私達は名刺交換をすることなく、自然と交流が始まった。
まだ二回目だというのにもう随分と前から知っていたような既視感と気のおけなさは、簡単に距離を詰めていった。
名前しか知らない関係は、帰る頃には同じピアスをするくらい、意気投合していた。
女子高生じゃあるまいし、どうかしている。いい年齢をして、それなりの社会的立場を持っているはずなのに素の自分は、どうにも稚拙だった。
「やっぱり、私より似合う」
「そうかしら。あなたの方がその髪型に映えていると思うわ」
「もっと自信を持てばいいのに。もったいない」
「本当にピアスをもらっていいの? 海外で買っているんでしょ?」
「貰ってください。海外は仕事柄、行くことも多いので買う機会は、意外とあるんです」
「じゃあ、お言葉に甘えて。お礼に今晩、美味しいワインをご馳走する」
「嬉しい!」
子供のようにはしゃぐ彼女は、明らかに素顔だった。食事会のときから、丁寧語と混在するフランクな言い回しは、親密になれる前兆だったのかもしれない。
今すぐに抱きしめたい欲求にかられながら、次に会う理由を探していた。
重症である。
自分を嘲笑したが、それだけで正気に戻れるほど軽いぬかるみではなかった。狂気的ともいえる彼女への想いは、さらに増幅していく。
お気に入りのフレンチを予約していたが、それだけでは満たされなかった。
「もっと美味しいワインがあるの。一緒に飲まない?」
ほろ酔いの彼女は、うなずきながら私の腕に絡んできた。美しい姿勢でヒールを履きこなしていた彼女が、今ではわずかに引きずっている。
私も高揚していた。
呼んでいたタクシーに二人で乗り込み、自宅へと向かった。夜も深くなっていたこともあり、マンションのエントランスには誰もいなかった。
彼女は嫌がることなく、嬉々としている。
「ここに住んでるなんて、すごい!」
「別に。会社にあてがわれただけよ」
そう言って低層マンションの三階へ行くと自部屋のロックを開けた。
「適当に座ってて。ワインを今、用意するから」
彼女はリビングのソファへと座った。
ここへ人を呼ぶのは、初めてかもしれない。仕事関係の数人はやむおえず入れたことはあるが、基本的にプライベートな空間に誰も入れることはない。
それなのに彼女はすでにこの部屋に馴染んでいる気がして、頬が緩んだ。
ワイングラスとワインを片手に彼女の隣に座った。
「ピアス、ありがとう。大切にするわ」
「喜んでもらえて嬉しい。それにこんな素敵な場所まで呼んでくれるなんて」
「朝まで楽しみましょう」
そういって、口づけをすると体温が重なり始める。
この夜、私達の関係は特別なものとなった。
お互いに仕事が忙しくプライベートな時間を合わせることが困難を極めた。
会いたいのに会えない。
このもどかしさを解消するべく、私はすぐに彼女をマンションに呼び出し、同棲を始めた。
おおまかな家事は、ハウスキーパーに任せてある。だから同棲を始めたところで、家事の分担も家賃の折半もすることはなかった。
部屋は余っていなかったが、パーテーションで区切ることで彼女のプライベート空間を守った。
お互いに及第点を見つけながら、毎日会える喜びに溺れていった。
「これ、ノベルティで貰ったからあげる」
「なかなか手に入らない、和紙製のポーチじゃない。いいの?」
「いいよ。そこの会社とは取引があるから私用では使えない。最近の人気は世代交代が上手くいった証拠ね」
「……前社長のときのほうが好きだった、とか?」
「ノーコメント」
そういって私は彼女の隣に座った。
風呂上がりの彼女の香りは、私と同じ石鹸を使っているはずなのに全く違う蜜の香りがする。その匂いが大好きで、つい顔を寄せてしまう。
読んでいた実用書から顔を上げると彼女も私の肩に頭を乗せた。
幸せだった。
彼女が出張でいないときも合間を見て、電話をしたり、彼女が帰るその日が待ち遠しくて、日付を数えた。
逆に私が出張で帰れないときは、彼女からのメッセージでやる気にもつながった。
控えめに言って、上手くいっていた。
広すぎるマンションの一室に彼女と同棲をして、時に同じベッドで寝て、一緒に食事して、些細なことで喧嘩した。それもまた一興で、絆と愛情を深めていった。
大好きだった。
月に一回はデートして、休みが合わないときは、オンデマンド配信で映画鑑賞して、感想を言い合った。
このまま続くと思っていた関係は、ある日突然、砂上の楼閣のように崩れていく。
四年が過ぎた頃、彼女が「大切な話がある」と切り出した。どこから見ても関係は上手くいっていた。だから私は、考えていなかったことに衝撃を隠せないでいた。
「もう終わりにしよう」
「どうして? なにか不満があるのなら、今まで通り、及第点を探せばいいじゃない」
「それじゃ、駄目なの。このままじゃ、あなたにも責任が及ぶわ。知らなかったではすまされない」
「どういうこと?」
「出会った当初、私はただの一般職で、なんの役職も立場もなかった。でもあなたは違った」
「そうね、黙ってはいたけれど」
「それが悪いといっているわけではない。ただ状況が変わったの」
そういって彼女は名刺をテーブルの上に置いた。
そこに彼女の名前が確かに書かれており、普段から使っているものだと分かった。
勤務先の会社名を見ていくといかに今の関係が危ういものなのか、容易に想像できた。
”社長付 第一秘書”
彼女の役職は会社の機密を扱い、社外に漏らしてはいけない。それなのに買収を仕掛けてきている社長と恋人同士という、誠実なのに不謹慎な関係になってしまった。
私が買収を仕掛けたのは、半年前である。もう少しで話はまとまりそうだが、依然として緊張が走っている。
もし彼女の会社を買収できれば、弱点であった部門を補強でき、さらなる躍進が期待できる。社長として情に流されて中止することは、社内の混乱を招き、進退を問われるだろう。
だからといってこのまま関係を続けていては、もしも外に恋人同士であることが知られてしまった場合、責任問題だけではなくなってしまう。
「情報をリークした」と変な噂が流れてしまえば、株価にも影響するし、信用関係も崩れてしまう。
私が社長を辞任することは困難で、また彼女も現状では異動すら難しい状況だということは、察しが付いた。
「どうして言ってくれなかったの?」
「私が社長付になったのは、ちょうど一年前。あなたが会社の社長だと知ってはいたけど全く関係ない業種だったから、言う必要なんてないと思ってた。波風なんて立てたくなかったし、秘書の業務も楽しかった」
「それを知らずに私はあなたの会社に買収を持ちかけた」
「買収先の会社名を知ったとき、真っ先に調べたわ。嘘だと思いたかったから。でも現実だった」
「私を恨む?」
彼女は大きく首を振って、泣きそうで今にも崩れ落ちてしまいそうな微笑を浮かべた。
「恨めるはずなんて、ないじゃない」
そういって、私の胸で嗚咽した。流した涙で服は濡れたが、その分私は強く抱きしめた。
これが許さる恋ならば、きっとそれは初めから決まっていたに違いない。
神とは残酷で、世知辛い。時に抗えない愚問を持ちかけ、強引に決断させる。
ずっとこのままだと思っていた。隣に彼女がいて、老衰するまで添い続けるのだと思っていた。
結婚なんて、できなくてよかった。ただの制度上の問題で、資産なら彼女に遺す方法も知っていた。
それなのにあまりにも残酷で受け入れがたい。
他に打開策があるはずもなく、二人で泣きわめきながら、同じベッドで最後の一夜を過ごした。
契約が無事に終わり、彼女の勤務している会社を買収することが正式に決まった。
結果は円満だった。ほぼ私の会社に飲み込まれる形ではあったが、従業員は基本的に継続雇用されることが決まっている。他にも友好的買収として、いくつかの条件をのんだ。
これから本格的に動いていくが、この買収で得たものと失ったものは大きい。
彼女は余計な憶測を避けるため、会社を去るだろう。
それでも私情を挟むことができるのならば。
生涯のパートナーとして、私の秘書として、隣にいて欲しい。
そう願う私は、どうにも情けない。
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