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リビングに入ると、「お疲れ様」と言って瀧沢さんが湯気の立つマグカップをテーブルに置いてくれた。
「ほうじ茶、嫌いじゃなければどうぞ」
「ありがとうございます。いただきます!」
そう言って一口飲むと、お茶の香ばしい香りが広がった。その温かさにホッとして、早春の朝の散歩で体が冷えていたのだと気が付いた。
「おいしい……」
自然と口からこぼれた言葉が瀧沢さんの耳に届いたようで、「良かった」と呟いて彼もまた自分の手元のカップに口を付けた。
瀧沢さんの座る椅子の横には松葉杖が二本立てかけられている。
昨日の今日だ。まだ松葉杖が二本とも揃っていなければ、歩くことも困難なはず…。それなのに私にこうしてお茶を出してくれる彼は、とても優しい人なのだと思った。
「瀧沢さん」
思い切って顔を上げてその名を呼んだ。
「なに?」
彼は手元のカップから目を上げると、軽く目を見張った。私の様子がさっきまでとは違っていることに気付いたのかもしれない。
私は居住まいを正した。
「私、しばらくの間こちらにお世話にならせていただきます」
「うん、朝そういう話になったよね。どうしたの?急に改まって」
「はい。ご厄介になるからには、きちんとお世話をさせてください」
「ありがとう。アンジュのこと、よろしくね」
少し瞳を緩めてそう言った彼に、私はそれまでよりはっきりとした声で言った。
「いえ、アンジュさんのことももちろんですが、この家のこと全般をやらせてください。瀧沢さんが普段通りの生活に戻れるまで、私が代わりに出来ることをさせてください」
「そこまでしなくても大丈、」
「いえ!そうでなければこちらにご厄介になるわけにはいきません!」
瀧沢さんの言葉を途中で遮って、私は叫ぶようにそう言った。
瀧沢さんは少しびっくりして私をジッと見つめている。
「……そうじゃないと私……」
さっきの威勢は、風船の空気が抜けるようにシューっと萎んでいく。
生まれてこの方、父親以外の男性と二人っきりで食事をしたことすらない私が、数週間男性と二人っきりで暮らすなんてどう考えても、寿命が縮まる行為だと思う。
でも、こんなに優しい彼に助けてもらった恩返しがしたい、という気持ちも嘘ではない。私で返せる恩があるなら、多少の無理でも頑張りたいとすら思える。
だから必要なのだ。『大義名分』が。
膝の上で両手をギュッと握りしめて、「お願いします!」と頭を下げた。
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