7. 二人と一匹暮らし、始めました。

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 弾んだ会話とコーヒーのお替りが済んだ頃、「では私はそろそろ」と佐倉さんは立ち上がりながら言った。    「美味しいコーヒーをご馳走様でした」  「こちらこそ、色々教えて頂いてありがとうございました」  「じゃあ、次は金曜日にお伺いすることになってますので、修平さんによろしくお伝えください」  「はい分かりました」  アンジュと一緒に玄関までお見送りをする。  玄関で靴を履きながら「あっ」と何かを思い出したように佐倉さんが声を上げた。  「どうかしましたか?忘れ物なら私が取ってきますよ」  「いえ、そうじゃないの……」  佐倉さんは少し細めの綺麗な眉を寄せ、思案げな顔をしてから、私の顔をじっと見つめたあと、「ふっ」と微笑んだ。  「瀧沢様には今週はもうお会いしませんので、伝言をお願いできますか?」  「はい。もちろんです」  「では『お誕生日おめでとうございます。今週木曜日にはお伺いしませんので、伝言で失礼いたします』と伝えてください」  佐倉さんの台詞に私は目を見開いた。  え、今なんて……  思考停止状態の私には、その意味がうまく頭に入ってこない。「どういうことですか?」と彼女に訊こうと口を開きかけたその時。  「この家の先代の奥様であった吉乃(よしの)さんは、本当に桜がお好きでいらっしゃいました。お孫さんの修平坊っちゃんがお生まれになった時に、大奥さまは『桜が散ってもこの子が生まれて来てくれたからこれからは寂しくないわね』と、とてもお喜びになっていらっしゃいました。その修平坊っちゃんのお誕生日は四月十二日、明後日なんですよ。」  佐倉さんは懐かしそうに目をすがめながら、優しい顔をして話しを続ける。  「この家のお庭の桜はたいそう見事でしょう?大奥様はその桜をとても愛していらっしゃいました。ですが、その桜が散ってから亡くなってしまったので、きっと修平坊っちゃんは桜が散るのを見ると大奥様を思い出して、少し切ないお誕生日を迎えてらっしゃる気がします」  「そうだったんですか…」  佐倉さんから話を聞くだけでも、私の胸は締め付けられるように苦しくなる。  あんなに美しい桜を見て、哀しい想いをしてほしくないな……。  しかも自分のお誕生日なら、なおさらだよ……。  眉を寄せて目を伏せていると、佐倉さんが私の右手をそっと取った。  「ですので毎年、お誕生日にはご挨拶に伺っていたのですが、今年はどうしても外せない用事が有ってお伺いできません。ですので、その旨を杏奈さんにお伝え頂きたいのです」  優しくそう言う佐倉さんの瞳の奥がキラキラと光って見えて、何かもっと私に言いたいことがあるような気がする。  「佐倉さん…あの…」  それを問おうとした私を遮るように「では、失礼いたします」と短い挨拶を残し、彼女は帰って行った。
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