7. 二人と一匹暮らし、始めました。

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***  その夜。  夕方の明るいうちにアンジュの散歩を済ませ、夕飯の支度も整って、あとは修平さんの帰りを待つだけ、となった。  準備万端のはずなのに、なんだかそわそわと落ち着かない。  少し前に、「今から帰るよ」と彼からのメールが入っていた。  もう帰り着くころかなぁ…。  夕飯の乗ったダイニングテーブルを前に座ったり立ち上がったりを繰り返していると、リビングのクッションで寛いでいたアンジュが突然顔を上げて耳をそばだてた。ピクピクッと何度か耳を動ごかしたと思ったら、急に立ち上がって玄関の方へ小走りで向かった。  なんだろう、と思って着いて行ってみると、玄関の鍵が音を立て、それから扉が開いた。  「ただいま、アンジュ」  修平さんは、ドアの隙間に顔を出すようにして出迎えたアンジュを優しい瞳で見つめながら撫でる。  そしてアンジュを見ていた目線をふと上げた彼は、私が玄関の上りに立っていることに気付いて、ふんわりと笑った。  「ただいま、杏奈。お迎えありがとう」  彼のその綺麗な笑顔に、心臓が小さく跳ねる。  笑ってくれるのは嬉しいけど、なんだか少し苦しい。  嬉しいのに苦しい……これっていったいなんなんだろう…。  自分の気持ちに戸惑ってばかりの私。自分の事なのに良く分からなくてちょっと歯がゆい。  そんな気持ちを彼に気付かれたくなくて、日常生活に気持ちを切り替えた。  「おかえりなさい。ご飯できてるよ。あ!松葉杖の先、拭くね」  シューズクロゼットに入れてある雑巾を出して、彼の足元に膝間付く。  そうやって二本の松葉杖の先を拭っていると、つむじの辺りに温かいものが触れるのを感じた。    え?なに??  びっくりして勢いよく見上げると、腰を折って近付いた修平さんの顔が。  濡れたように煌めいたその瞳に捕えられて、ハッと息を呑んだ。そのまま目を逸らすことが出来ない。    「ありがとう、杏奈」  甘く微笑んだ後、彼の顔は離れて行った。  肩の力が抜けてホッと息を吐きだした。でも次の瞬間、頭をグリグリっと撫でられた。  「着替えてくるね」  楽しそうな声でそう言った彼は、ゆっくりと廊下の向こうに消えていった。  彼の後姿が見えなくなった途端、完全に力が抜けきった私はそのままペタンと玄関に座り込む。  「し…心臓がもたないよ……」  真っ赤になった頬に手を当てると、隣に座っているアンジュがその手をペロリと一舐めした。  「あなたのご主人様は、いったいどうしてこんなことするのかな……」  か細い声で呟いてみたけれど、アンジュはその答えをくれたりはしなかった。
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