氷の竜

1/1
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/15ページ

氷の竜

 氷結の洞窟。そう名付けられたこの洞窟は、氷水晶に閉ざされた世界だ。凍てつく氷水晶はツンとした痛い程の冷たさを持ち、けれど美しい。あまりにも高い透明度を誇る氷水晶は、この地に足を踏み込んだ生物を魅了する。そのまま足を止めてしまえば身も心も……呼吸さえ凍り付いて囚われ閉ざされてしまいそうだ。あるいは魂ごと凍ってしまいそうなほどの、氷水晶の最奥。広くはない氷の道を歩き続けた先に広がったのは、氷水晶で出来た神殿だ。ここまで一度も止まらなかった男の足が、ついに止まった。久しく見た美しい世界に魅せられたのだ。危うくそのまま氷水晶の中に閉ざされそうになって、少し慌てて歩を進めた。手足の感覚は随分と前からない。目も鼻も耳もあまりの冷たさに痛み、それは総じて酷い頭痛となって男を襲っている。洞窟内部を淡く照らす光は、幻想的な氷水晶の世界をいっそう美しく輝かせているが、何処から取り込んでいる光なのだろうか。  本来ならば人間が立ち入る事は赦されないだろう、広く澄んでいる神聖な氷水晶の神殿を一人歩む。此処までの道のりでかなりすり減ってしまっただろう、強い滑り止めの効果を持つはずの靴からその効果が薄れ始めていた。途中、二足ほど駄目にしてようやっと辿り着いた氷の果て。神殿の中心へと辿り着いた男は、そこで足を止めた。顔を守るために巻いた防寒具の奥で鼻から息を吸い込んで、ほう、と一息吐いた。鼻孔と肺が冷気を吸い込んだ為に、ずきり、と痛んだ。 「よう、久しぶり」  んん、と凍り付いた喉を咳払いで溶かしてから、氷水晶の神殿の中心点にて祀られている氷の神――眼前に在る大きな氷水晶の塊に声を掛けた。全てが凍り付いて沈黙に包まれていたはずの世界に、男の声は酷く響いた。氷水晶が幾重にも男の声を反射させ、その身が宿す光さえ微かに揺らす事であたりは暫くゆるやかに点滅を繰り返した。そのまま二呼吸ほど待つが、此処はあまりにも寒い。悠長に待っていると此方が凍え死んでしまう為、男は急かすように腕を組んでは目を眇めた。 「おい、起きろって。もう冬だぞ」  こちとら安らかな眠りを邪魔せぬようにと気遣い、粘りに粘って、まさに命懸けでやってきたのだ。疲労も相まって声に不満を乗せて、もう一度氷水晶の塊に呼び掛けた。もうあと一呼吸ほど遅かったら蹴とばしてやろうかと思ったのが、伝わったのだろうか。ひゅぅ、と氷水晶の塊が深く息を吸い込んだ。呼吸に合わせて氷水晶の塊が揺れ動き、宿っていた光が合わせて揺れ踊ると神殿全体が呼応するように乱反射を起こす。パキリと軽く鳴り響いた氷水晶の音を合図に、氷水晶が本来の姿へと変わり始める。長い間ここで眠っていた為に、凝り固まっていた氷水晶で出来た身体を削り解していく。時にバキバキと荒い音を立てては、その衝撃で砕けた氷の砂を散らす。  透き通った氷水晶の瞳が、男の眼前でゆっくりと開かれた。人間を超越した強い意志を持つ瞳は、それだけで生命の熱を丸ごと凍り付かせる力を持つ。酷く重たいだろう身体を、のっしりと持ち上げる。人間が寝起きに身体を伸ばすのと同じように、その存在は身体を――氷水晶の両翼を大きく広げ、伸ばした。合わせて男の眼前でぐわりと広げられたのは、大きな口だ。体内まで綺麗な氷水晶で出来ているが、しかしその牙は人間が鉄を叩いて作り出した剣やナイフより圧倒的に切れ味が鋭く、それでいて力強い。男の身体なんて軽く噛み砕けてしまう程に大きく圧倒的な力を持つ牙を眼前に、男は目を細めた。  ――ひゅ、とそこに向かって冷気の流れが生まれる。最初は緩やかに、けれど時間の経過とともに強く、強く。その流れに逆らえずに周囲の氷水晶が微かに砕けて出来た氷の粉が、光を受けることで光の粉となって吸い込まれていく。それだけで周囲の温度が十度以上下がったのを防寒具越しに感じながら、男はその流れに飲み込まれないよう両足に力を込めた。あまりの冷たさに男の意志とは関係なく、身体の反射によって涙が滲み出てきた。それさえ周囲の冷気が凍てつかせては、ぽろ、と凍った男の涙もまた其処へと吸い込まれていき……かと思いきや、今度は閉ざされた口の上、開かれた二つの鼻の穴から冷気が吹き込んできた。堪ったもんじゃない、と男はついに両目を守る様に右腕を上げた。 「…っ…おい、人の顔面に向かって欠伸すんなよ…!」  こちとら一定以上の熱を保たないと死んでしまう人間なんだぞ、と凍え震える声で懸命に告げれば、ふ、とその呼気は止まった。それを思い出したらしい。先ほど開かれたばかりの氷水晶の瞳が瞬くと、そこに男の姿が浮かび上がった。 『――ああ。なんだ、お前か……』 「なんだとはなんだ、なんだとは」  起きろよ、と再び促せば彼――氷水晶で出来た身体を持つ、氷結のドラゴンは再び込み上げてきた欠伸を一度堪えては、のっそりと身体を持ち上げた。ぐっと一度身体を縮めては、両翼を含めて全身を伸ばし……透き通った氷の水晶の鳴き声を響かせた。数多のドラゴンの中でも、特に彼らは美しい鳴き声が特徴とされる。氷水晶の神殿はもちろん、この氷結の洞窟全体がその鳴き声に呼応するように煌めき輝く。冬の訪れを知らせる神聖なる鳴き声は即ち、氷結のドラゴンの目覚めを知らせるものだ。しかしそれはかつての時代の話であり、現代において彼の声を……冬の訪れを知らせる声を聞く者は居ない。唯一、目の前に居る男を除いて。ふ、と氷水晶の瞳が男を見下ろす。彼の咆哮一つで男の熱を奪い、その生命の灯ごと凍り付かせることなど容易い。しかし彼はそれをしないどころか、男がこの程度の寒さでさえ命懸けであることを気遣い、その冷気を操る。本来ならばあり得ない暖気が、男の身体を包み込んだのだ。仕舞いには氷水晶の瞳が男の身を案じる様に細められ、様子を伺うように鼻先が寄せられた。 『毎度のことながらお前は無茶をして。火魔法程度、扱えるだろう。お前なら赦すと、そう言っているのに』 「こんな綺麗な世界を目の前に、そんな無粋なもん使えるかっつーの」  人間の扱うちっぽけな火如きでどうにかなる氷の世界ではないが、それでも男は一度でもそれを使ったことがない。それは男のプライドでもある。この世のもの全てには在るべき場所があり、在るべき姿がある。それが男の考える、この世界の摂理だ。その流れに身を委ねて、決して逆らってはいけない。変わっていないな、と氷結のドラゴンが安心したかのように目を伏せた。 『それで、なんだ、どうした。わざわざ私を起こしに来た、と言うわけではないんだろう?』  昔は冬の訪れが遅れるとこうして人間が起こしに来てくれた事もあったが、今ではすっかり無くなってしまった。季節の移ろいに人々が興味を失くしていったのだ。故にこうして人に揺り起こされるのは、彼としても随分と久しぶり……いや、初めて男がこの地に来たのはほんの少し前の話だ。あの時は、酷く驚いたものだ。そんな事を思い出しながら人間を見下ろせば、男は氷結のドラゴンから与えられた加護のもと――じわりじわりと身体に熱が戻り始めたのを確認したところで、冷気から頭部を守るために被っていた毛皮のフード部分を取り払った。動きに合わせて散った髪先から、パラパラと氷の粉が滑り落ちていった。 「ああ、まぁな。ちょっと聞きたいことがあって」  季節は冬。真冬になる前……氷と吹雪に閉ざされる前に来なければ、此処にはとても来れないし、そうなれば彼とも話せなくなってしまう。故に男は慎重に時期を見計らい、此処までやってきたわけで――言いながら男は氷水晶の瞳を見上げては、笑みを零した。 「ここから世界の果てに行きたい」  短くそう語った男の言葉に、氷結のドラゴンは氷水晶の瞳を細めてみせた。そこに在る事を赦されたからと男は身に纏っていた毛皮を脱ぐことなく、そのまま氷の上に腰を下ろしていた。一先ず荷物を下ろした男は、真っ先に氷を拝借するとそれを砕き器に入れ、魔法……ではなく、魔化学反応を意図的に操り湯を沸かした。一切の不純物のない空間では、魔法よりも魔化学反応を引き起こした方が効率が良いのだ。それでいて氷の世界への影響もほとんどない。氷を溶かして沸かしただけの白湯が、けれど男の命を救う。砂漠のど真ん中で喉を潤すオアシスの水とはまた別の、自然界の酒だ。それも最高級品の熟年ものだ。こればかりはどこぞの貴族や収集家がどれだけの金を積もうとも、決して得られない自然の恵みだ。無限に飲めるだろう白湯を飲んで幾分か体温を取り戻した男の瞳には、活力が戻っていた。 『果て……と言うと?』 「この神殿の、その奥に行きたい」  氷結の洞窟の最奥。そこに彼らはいるが、けれど男は此処から更に奥へと行きたいと言う。氷結の洞窟――世界の最北東に位置する此処は、見ての通り氷に閉ざされた世界だ。これから真冬に向けて時が進めば、此処は完全に氷と雪に閉ざされてしまう。かと言って真夏に来ても、意味がない。この氷水晶の神殿に住まう氷結のドラゴンが眠っている間は、この神殿ごと深い眠りに落ちてしまう為、氷結の洞窟にさえ足を踏み入れる事は叶わなくなる。故に此処、氷水晶の神殿にまで辿り着くのは本来であれば困難を極める。どんなに優れた探検家でも、その見極めが難しく命を氷に閉ざされてしまうのだ。こうして難なく、それも幾度も此処までたどり着いている男は、それだけで称えられる事であり、幾度も奇跡を起こしていると言っても過言ではない。だけれど男はそれで満足していない様子だ。貪欲に、強欲に、更にその先を求めているのだ。となればこの世界が氷と雪で完全に閉ざされる前、かつ氷結のドラゴンがほんの少し早めに目覚めた時。ここから先を目指すならば、そのタイミングがベストだ。……なるほど。氷結のドラゴンを揺り起こし、そしてその加護を得られなければ、決してこの先へは進めないとどんな素人でも分かるはずだ。 『何故?』 「ん?いや、シンプルにこの先って何があんのかなーって、それだけなんだけど」  その先に何を求めて往くのかと問えば、男はあろうことか純粋な好奇心だけでそう言った。男はその先に何かを求めている訳ではなく、ただその先に何があるのか知りたいだけなのだ。氷結の先、氷水晶の果て。そこには何があるのか、ただただそれを知り、見たいだけなのだと。 『人間が立ち入るべき世界ではない』 「うん。そーなんだろーけど」  過ぎた好奇心は死を招くと幾度言われたか分からない男に向かって、氷結のドラゴンはそう応えた。予想通りの返事だったのだろう、男は後ろ髪を掻いた。違いないとそれを認め、理解したうえで男はそう言ったのだから手に負えない。 「でもお前はどんな吹雪でも、氷の海の中だって飛べるだろ?」 『当たり前だ。が、私が往けるのは飽くまで氷の果てまでだ』 「んじゃ、そこまでで良いからさ。頼まれてくんねーかなあ」 『お前を死地に送り届けるくらいなら、私は今此処でお前を氷水晶に永遠に閉じ込めてやる』 「やっだー熱烈ぅ!こーのさみしんぼの可愛い奴めっ!」 『ほう?』 「悪ィ待って俺もうちょい生きてーから勘弁してくんね?」  俺の事が好きなのはわかったから、と男はゆったりと身を持ち上げようとした氷結のドラゴンに向けて、へらり、と微苦笑を浮かべた。そう、彼らドラゴンに限らず人間を超越した存在にとって男の寿命はあまりにも短すぎる。故に彼もまた、ふと気付いた時には男が此処には来なくなる日がくる事を恐れている。人間より遥かに長寿であり強者であるにもかかわらず、けれどその心はあまりにも繊細だ。人を想いそれを喪った事で狂い堕ちてしまうドラゴンの話なんてものは、人の世にさえよくよく転がっている話だ。その度に彼らドラゴン達は心を閉ざすが、しかし人間と言う存在は何時の時代もどうしてか彼らの硬く閉ざした心をあっさり押し開いてしまう。そのくせ、こちらが抱えた愛しさを全て伝えきる前に死ぬ。残った愛しさを抱えて、ドラゴン達は千年、二千年を生きる。長い寿命を持つ故に一つの想いを長く抱えて生きるドラゴン達に比べて、人間はどうだ。寿命が短いゆえに一つの想いだけを抱えて生きていては、あまりにも時間が短すぎる。故に人間は忘れる事で、次々と抱える想いを変化させていく。人間は忘却の生き物だ。ドラゴン達からしてみれば瞬きするたびに変化する人間は、あまりにも忙しい。あまりの変化の速さに壊れてしまわないか、狂ってしまわないか不安になってしまうほどだ。だからこそ、この一瞬を氷に閉ざしてしまえばと思ってしまうのだ。そうすれば不変となり、そして永遠になる。人間と比べてあまりにも長い時を生きるドラゴンにとって、その存在はきっと長く心を癒すものとなるが、しかし。 「んん……分かった、諦めるよ。別方向から攻めるわ」 『……諦める、とは?』 「此処から向かうのは諦めるってだけで、果てを目指すのは諦めねーって事」  諦めたかと思いきや、ちっとも諦めていない男から目が離せないし、その姿をずっと見ていたいと思ってしまう。懸命に歩み続けようとするその姿がいじらしくて、そして心から尊いと思うのだ。だからこそ、それを氷に閉ざしても何の意味もなさない事は氷結のドラゴンだけではない、多くの者達が気付いている。だからこそ皆、この男をそっと見守っているのだ。時にとんでもないことを言い出す男に、驚き惑わされ、あろうことか振り回されながら。だが、それが酷く愛しい。 「んじゃ俺、行くわ。氷ありがとうな、最高に美味かったぜ」 『もう行くのか、落ち着きのない奴だな』 「また来るよ、そのうちな」  名残惜しさからつい縋る様に言えば、流石にこんな所で寝たら本当に死んでしまうから、と男は困ったように微苦笑を深めた。……そう、これが人間である男と氷結のドラゴンの住まう世界の違いだ。男のもつ熱は氷結のドラゴンにとっては高すぎるし、けれど氷結のドラゴンの冷たさは男にとっては低すぎる。彼らが常に共にある事を望むならば、契約を交わすしかない。氷結のドラゴンは男がそれを望めば赦すだろうが、だが男がそれを望まないと知っているし分かっている。時々、それが寂しく感じる。おかしな話だ、ドラゴンで長寿故に孤独には慣れているはずなのに、どうしてか人間を求めて恋焦がれてしまう時がある。身が溶けてしまいそうな想いを抱えて、氷結のドラゴンは早々に立ち上がって踵を返し、毛皮を翻した男を見やった。 「じゃあな、フェグラ」  そう言ってさっさと歩き出してしまった男が、氷結のドラゴン――フェグラは、時々酷く憎くなる。名前があった方が仲良くなれるからと男は勝手に、しかも何の考えもなしに適当にそう呼ぶ。だと言うのにその名を呼ばれるたびに嬉しくなってしまう自分が、なんとも恥ずかしくて情けなくて、けれどやっぱり愛しくて――嗚呼。いつの時代もドラゴンが人間を憎み切れずに愛してしまう、その理由が分かる、分かってしまう。なんと図々しくて、生意気で、ちっぽけな生命か。圧倒的に弱く、知識も乏しく、無鉄砲で愚かで……瞬きをしている間にコロコロと変わるどころか、ちょっと転寝をしている間にあっさり死んでしまう人間が、それでも。飽きるほどに繰り返して、嫌になるほどに繰り返して、嘆いて苦しんで身を溶かして、それでも。  ◇ ◇ ◇  ……ふ、と目覚める。冬の訪れ。最早誰も聞いていないだろうそれを、それでも世界に知らせるために。目を開き、欠伸を漏らし、身体を持ち上げて氷の両翼を広げ伸ばす。吐き出した息は凍てつき、氷水晶となって散っていく。これを繰り返していく。飽きる事はない、長く在る事に慣れているからだ。不意に、氷水晶が誰かの足音を乱反射する。あの男がまた久しくやってきたのだろうか、いや違う。男の鳴らしていた足音とは違う……そもそも、その数が違う。一人ではない、二人。珍しいこともあったものだ、こんな場所に一度に二人も人間がやってくるだなんて。 「……――……」  少女だ。それもまだ幼いと言える。それと、もう一人は――目を見張る。夢か幻覚か、あの男によくよく似た男が其処に居たのだ。が、直ぐに理解した。違う、彼はあの男ではない。風の噂で聞いたことがある、彼は、あの男は――そして目の前に少女と共にやってきた男の事も。さて、しかし、この少女は一体。 「……あなたが、"氷の竜"……?」 『如何にも。ヒトの子よ、我が聖域に何用で立ち入った?』  少女に呼ばれて、首を伸ばして目を細め応える。氷結のドラゴンでも、氷の竜でも、どちらも同じだ。広義にその名で指し示される者は、この世界において自分しかいない。その声を聞いて驚いたらしい、はっと少女が吐き出した吐息が瞬く間に凍り付き、水晶となりて散っていった。あまりの寒さにか、いや酷い緊張によって震える胸元を抑え込み、一度口を閉ざす。喉の奥に熱を宿して、そして人間を圧倒する遥かな強者に対して決して偽らぬよう。 「力を、貸してほしいの」 『何故?』 「命を懸けて守りたい人が居る」  正しい。少しでも偽ろうものならば彼は幼い少女とて、その首を噛み砕いていたことだろう。彼からしてみれば人間の、少女の命などあまりにもちっぽけなものだ。その命を投げ出したって成せる事は、悲しいくらいに大したことないだろうに。だからこそ人間は簡単に命を懸けるのだろうか?自分たちの持つ命があまりにもちっぽけで小さなものだと、そう自覚があるから。 「――心を。一生を。私の全てを懸けて、仕えたい人が居る」  ……いや。いいや。其れは違う。人間の命は短いからこそ、だからこそそれを懸けると言う事は長くを生きる者達とは訳が違ってくる。ドラゴンと違って一つの想いだけを抱えて生きるのが困難なはずの人間は、時としてそれを全て投げ捨てて、たった一つだけの想いを抱えて生きようとする。それはきっと苦しいことで、酷く難しいことだ。嗚呼、どうしてだろう、何故だろう。お前たち人間は、どうして到底抱えきれないだろうものを、それでも背負い込もうとする? 『……愚かな娘だ。その心ごと、私が凍らせてしまうかもしれないぞ』 「凍らないわ。例え凍る事があっても、私はこの熱を忘れない。必ず溶かして見せる」  愚かだ。どうしてだろう、何故だろう。お前たち人間は、どうして果たせもしない夢のようなことを――そんな愚かな夢を、傍で見届けたいと、そう思ってしまう。嗚呼、嗚呼。嫌になる。嘆きたくなる。そう言ってお前達は、いつも、いつも。こちらの気持ちなど、微塵にも知らずに。なのに、なのに。 『……お前は?』 「ん、俺?俺はただの付き添い……ってほどじゃねーけど。俺はちょっとお前に聞きたいことがあってさ」 『なんだ?』  傍に居た男に問えば、誰かと酷く良く似た……いや、全く同じ声が聞こえてきた。恐らくこれは運命の悪戯だと、理解しながら。 「此処から世界の果てを目指した男の事、知ってるか?」 『……知らんな。あの男は、あまり自分の事を話してはくれなかった』 「そっかー…んじゃぁ良いや。俺はそれだけだから、エナっちの話聞いてやって?」 『この娘に協力しろと、そう言わないのか』 「俺が言ったら、それでお前はこの子に力を貸してくれるのか?」  ……嗚呼、嗚呼。嫌になる、嘆きたくなる。分かっていながら、この男はそう言っているのだ。仮にこの男がそれを促せば、きっと自分は頷くしかない。だがその瞬間、この男は……いや、この娘は。 「お断りします。私は、そんな竜を求めてはいない」 『……そうだろうな。……そう……――嗚呼、違いない』  人間はドラゴンにそれを求めてはいない、ドラゴンが人間にそれを求めていないのと同じように。人間が求めるは、その気高さだ。誇り高き翼、力強い牙と爪、屈強な背と尾。そしてドラゴンが求めるは、それらを貸し与えるに相応しい強く美しい心と、その先に見え隠れする見届けたいと思えるような未来。人間にとっては一生をかけて、けれどドラゴンにとっては刹那に見る、情景。 『良いだろう。お前が私に何を見せてくれるのか、その未来を宿す心を力にて示せ。娘よ――汝、名は?』 「……エルフィナです。エルフィナ・クラリース」 『良い名だ。……その名を我が氷水晶に刻むことが出来たのならば、汝の決意、我が見届けよう』  スラリ、と少女が抜いた剣は氷水晶に劣らぬほどに美しく強く輝き――凛然とした瞳が、じり、と"氷の竜"の瞳を僅かばかりに焼いた。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!