夢を見ている

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夢を見ている 彼と逢ったのは2年前の大学キャンパス内だった。 黒い髪を少しワックスで整えて、ブラウンのチノに少しくすんだ赤いライダースジャケット。 顔は中性的なのに、そんなパンクな格好が何故か似合っていたのを覚えている。 春の温もりが包む中庭で行われた討論会の班の顔合わせで、彼をずっと見てしまっていた。 打ち合わせの最中もなるべくバレない様に彼を見ていると私の心の中に緊張感と安心感が同時にやってきたのを思い出す。 頭はぼーっとして、討論会の打ち合わせなんて頭に入って来なかった。 もちろん、同じ討論会メンバーであった元からの友人に「真面目にやってるの?」と言われた事も覚えている。 それが恋だと自覚出来たのは、それから2週間後だった。 自覚するのが遅い? だって、高校生の時は部活に入れ込んでて恋なんてする暇なかったんだ。 ちょっと鈍感でも許して欲しい。 討論会が終わった後、私の心に耐え難い物寂しさが湧き上がった。 「彼と会う機会が無くなる?なんで!?なんで!?」 表面には出さなかったけど、心の中では凄い取り乱したのを覚えている。 私はどうしようかと悩んだ。 彼となんとか会い続ける方法を見つけなくては…と。 その解決策はすぐに思いついた。 彼は映画サークルに属していた。 ただ、そのサークルに自分も加入すれば良かったのだ。 私は彼のいるサークルの会室の扉を叩いた。 重々しい金属製の扉を開くと彼はそこにいた。 それだけで私の心に充足感が溢れたのを覚えている。 まるで映画に興味があって入ってきた1年生の女子を装い、私は彼の周りにいたサークルの人達に初々しく挨拶を済ませる。 先輩や他に同級生が何かを言った気がするが、それは思い出せない。 ただ、彼がかけてくれた言葉は今でも思い出せる。 「あ、●●さんじゃん!君も映画好きだったんだ?」 私は彼の喜ぶ顔に泣きそうになってしまった。 ただ、ここで泣いたら気持ち悪い女だと思われてしまう。 私は平静を装い、彼に返した。 「うん。××くんも映画好きだったんだね。」 それからは彼がいる会室に行くのが毎日の楽しみになった。 最初は彼と話が合わなくて辛かったのを覚えている。 それもその筈だ。 私は映画なんて年に一本観ればいいぐらいの女だったから。 他の人が彼と映画の話を仲良さそうに話していた事が悔しくて堪らなかった。 私は会室から帰ると、なるべく多くの映画を観る様になった。 1日2、3本を観る事から始まり、一時期は1日5、6本観る様になっていた。 苦しくなかったかって?苦しかったよ。実は単位も結構落としたんだ。 ただ、彼と一番話せるのが他の誰かであった事が許せなかったの。 その甲斐もあってか、私は彼と一番映画の話が通じる相手になった。 黒澤明、小津安二郎、溝口健二、スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、ウディ・アレン、マーティン・スコセッシ、チャップリン、ヒッチ・コック…。 かつての名監督だけじゃなくて、彼の話題に上がった近年の監督のデビュー作も遡って鑑賞した。その甲斐もあってか、私は彼の話に難なくついていける様になったのだ。 彼が映画を撮りたいと言い出した時、彼は私に一番に意見を求めてきた。 その時、私は彼の特別になったと思えた。 …思えただけだったけど。 映画の知識をいくら手に入れて、彼と会話出来る様になっても、私と彼の関係は映画を愛する同じサークル仲間のままだった。 違うの!私はあなたと映画だけに関わらず、色々な事をしたいの! 映画以外のあなたの事も教えて! 何が好き?何が嫌?どんな女が好き?どんな女は嫌?どんな人と過ごしたい? 私はあなたが望む様になるから教えて! 私は心の中でそう叫んだ。そう、ただ叫んだだけだった。 そんな停滞を感じていた中で、ある日、私は夢を見た。 彼とデートする夢を。 デートの場所はボウリング場。 私はボールを投げる。 ピンを一つだけ残して他は倒す事が出来た。 ただ、いくら投げた所で残った1ピンを倒す事が出来ない。 すると、後ろで座って見ていた彼が私からボールをヒョイっと取って、ボールを転がす。 彼のボールは残った1ピンに吸い込まれるかの様に近づき、そのまま弾き飛ばした。 彼は私の顔を優しく見る。 私はその優しくて中性的な顔に心臓をドキドキさせた。 ———————夢というのは起きてしまうと忘れてしまっているか、覚えていても大体が荒唐無稽で、なんだったんだ…あれ…という困惑する事が大半である。 もちろん、私はその夢を見た時は後者の感想を抱いた。 ボウリングのルールがまずぐちゃぐちゃであるし、現実で実際に行ったボウリングとは全く違う様相を呈していたからである。 夢を見る前に実際に彼も含めたサークル仲間で行ったボウリングでは、私はガーターを連発して、同じチームの面々から白い目で見られた。 一方で、彼は別チームでストライクを多く出し、私を尻目にチームの人達とはしゃいでいた。 ただ、荒唐無稽で現実とは乖離しすぎなその夢は困惑と同時に私に不思議な充足感をもたらしてくれていた。 それからも夢をたびたび見た。 彼と2人っきりで映画館に行く夢。 彼と2人っきりで水族館に行く夢。 彼と2人っきりで花火大会に行く夢。 彼と2人っきりでドライブに行く夢。 彼と2人っきりでショッピングに行く夢。 彼と2人っきりで東京に行く夢。 彼と2人っきりで遊園地に行く夢。 彼と2人っきりで家でまったりと過ごす夢。 彼と2人っきりでカラオケに行く夢。 彼と2人っきりで海に行く夢。 彼と2人っきりでキャンプをする夢。 彼と2人っきりで食べ歩きをする夢。 彼と2人っきりで夜景スポットを眺める夢。 最初は夢のどれもが観た後に、なんだったんだろうと思えるものだったけど、そのうち、そういった夢を見る事は私にとって充足感を与える素晴らしいものになっていった。 ただ、夢も時折思い通りにいかなくて、なおかつ私を嫌な気持ちにさせる事があった。 その夢は大学2年の夏に、彼にとっては5本目の映画を撮ろうとした時の事だ。 クランクイン初日、私は彼の撮影を手伝うと言ったにも関わらず寝過ごしてしまった。 急いで支度をして、酷暑の中、汗まみれで現場に着いた時には、彼を含めたメンバーに嫌な空気が流れている事を感じた。 その原因はもちろん、私の遅刻である。 彼はイライラを私に直接ぶつけてきた。 「あのさあ…。お前は自分から手伝うって言っといて、なんで遅れてくんだよ。 機材は全部、自分が運ぶって頑固に言い張ったのお前だろう?」 酷い夢だった。 彼の為に、彼に注目してもらう為に誰よりもがんばっていたのは私だよ? なんで彼は私に酷い事を言うの? なんで彼以外の人達は私を冷たい目で見るの? 私はその時、胸が締め付けられる感覚を感じずにはいられなかった。 ただ、そんな嫌な夢も度々挟まる中で、幸福な事もいっぱいあった。 ある日、彼と2人っきりで部屋の中にまったり過ごしていると、彼が読んでいた本を静かに閉じて、私の前に正座して座った。 彼は照れ臭そうにしながら、意を決して言った。 「あのさ…キスしていいかな…?」 私はその言葉に驚いて顔を火照らしたが、少しだけ間を置いてコクンと頷いた。 彼は少し膝を立てた体勢になって私に近づき、肩に両手を置く。 2人とも目を閉じ、少しした後に、唇に柔らかい温もりを感じた。 それからは嫌な夢を度々見る事はあったけど、彼と一緒にいる幸せが上書きしてくれた。 彼と2人っきりで映画館に行った。 彼と2人っきりで水族館に行った。 彼と2人っきりで花火大会に行った。 彼と2人っきりでドライブに行った。 彼と2人っきりでショッピングに行った。 彼と2人っきりで東京に行った。 彼と2人っきりで遊園地に行った。 彼と2人っきりで家でまったりと過ごした。 彼と2人っきりでカラオケに行った。 彼と2人っきりで海に行った。 彼と2人っきりでキャンプをした。 彼と2人っきりで食べ歩きをした。 彼と2人っきりで夜景スポットを眺めた。 彼とキスをした。 楽しい色んな事をした。 私と彼はいつも笑顔だった。 私は幸せ。 そして、私は遂に彼に抱かれた。 彼の硬くて強い肉体を感じた時、その時多く見るようになっていた嫌な夢の彼の顔なんて消えてしまっていた。 彼は私に対してため息なんてつかない。 彼は私に嘘の予定なんて言わない。 彼は私を無視しない。 彼は私の悪口をサークルの人達と言ったりなんかしない。 彼は私に正面からキレたりしない。 私を抱く彼はこんなに優しい顔をしているのだから。 ただ、そんな幸せな日を過ごしていたある日、私は最悪な夢を見た。 それは雨が降る、ある春の日。つい最近の事だ。 私が授業終わりに一人で歩いていると、女と仲良く話す彼の姿が見えた。 女は同じサークルの後輩で、私とも面識がある。 その仲の良い様子に私は心にざわつきを感じ、そしてその嫌な予感は見事的中した。 しばらくして2人は人目のつかない所に移動してキスをしたのだ。 私は腹の底に何かどす黒い物が沸き上がる感覚を覚えた。 許せない、許せない、裏切り者、裏切り者。 私は2人の元へ詰めよった。 そして女をなじった。人の男を取るんじゃない!最低なアバズレ! それに対して女は泣きそうな顔を浮かべた。 一方で彼は、少し困惑した様子を見せた後に顔を真っ赤にして、怒りの形相で私をなじり返した。 悪い夢特有の彼が言わなさそうな言葉に私は絶句した。 私は彼に懇願した。 なんでそんな酷い事言うの? 私とこれまでいっぱい色んな事したよね? 私はあなたの為にいっぱい色んな事したんだよ? なんで私を見てくれないの? なんで他の女とキスしてるの? 彼は私の様子を心配してくれるどころか、信じられない様な物を見る目で言った。 「気持ちわりぃ。」 ———————私は夢を見てる。 台所であの女の頭は散々打ったから、もう目を覚ます事はないだろう。 フローリングの床には金槌から滴り落ちた、赤い液体が小さな水たまりを作っている。 そして、その脇にあるグレーのベッドの上では、頭から赤いものが見えている彼が横になって眠っている。 ああ、こういう部屋だったんだ…。 私は夢を見ている。 目が覚めたら、彼と一緒に何をしよう?どこに行こう? 外を走る車と大学生たちの喧騒が聞こえるだけの中で私は静かに考える。 あれ?覚めないな。
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