でたらめ先生のうそつき授業・暗闇編

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授業というのは、いつも礼に始まり礼に終わる。 あの、誰もが体験したことのある、起立、礼、着席というヤツだ。 かなり略式なものであるが、あれも礼だ。 礼というのは他者に対する尊敬のことだ。 なぜこれを授業の始まりと終わりにするかというと、学問に対する尊敬がなくてはいけないからだ。 聖徳太子も言っている。 厚く三宝を敬えと。 三宝というのは仏教用語で、仏、法、僧のことだ。 つまり仏教の開祖であるお釈迦さま、仏の教えである法、法を衆生に伝える教師としての僧侶。 この三つを敬うことが仏教を国家宗教として成り立たしむるために重要であると、太子は見抜いていたのだ。 学問においても同様で、学問そのもの、学問の教えが書かれている教科書、教科書の内容を伝える教師。 この三つに対する尊敬がなければ、子どもなんぞは勉強するわけがない。 だから学問に対する最低限の尊敬を表す手段として、起立・礼・着席は大事なのである。 本来であれば教師が教室に入ってくる前には、全員直立不動で待っていて欲しいものである。 ところがこの簡単な礼すらできない子どもがいる。 現に窓際の席の児童は立っているのか座っているのかわからないグダグダさだ。 廊下側の席の児童はお辞儀したのかしていないのかわからない曖昧さである。 真ん中の席の児童は、自分の席がどこにあるかもわからないのではないかという落ち着きのなさ。 まったく、こんな奴らに学問を教えなくてはいけないのかと、授業の開始と同時に憂鬱になる。 早く職員室に戻りたいが、戻ったところで薄いお茶とタバコの煙が待っているだけだ。 この国の文部科学省はPTAの顔色ばかり伺って、教師の職場環境なんてちっとも改善する気がないんだ。 それでは、この子たちは尊敬という概念を知らないのかというと、そうでもないらしい。 毎年4月の初めに自己紹介させているが、自分の尊敬する人は誰々ですと言う子どもは多い。 すると問題なのは、その尊敬されている人物にあろうか。 一番前の席で鼻を垂れている児童は、メジャーリーガーの◯◯を尊敬していると言った。 あとでそいつのYouTubeを見てやったら、学校の勉強なんてしなかったけど、自分は英語が話せるようになったと豪語していた。 何を偉そうに、たかがボール遊びをしているだけで。 野球選手に話せることなど、女と車のことぐらいだ。 そんなもの何語であっても話せる必要はない。
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