命の価値は

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命の価値は

 命は粗末に扱うものではない。私もそう思う。だからといって、命を大切に扱い過ぎるというのも正常とは言い難い。 粗末にしようが大切に扱おうが、大体の人間においては心の持ちよう有る無しに拘わらず、死は突然に、理不尽に、此方の意思に忖度する事もなく訪れる。 無論、何時何分にピンピンコロリで死の予約を死神と契約出来るのなら、どれほど命が軽薄かつ尊重され、その最後を迎えられるかは想像に難くないが、こんな話は無論空想でしかなく、受け入れる受け入れないといった個人の意思を無視して、死は必ず訪れる。 だからだろうか、私は死ぬことを極端に恐れることもない。 いいや、正確には『死』そのものからの、人間的勘とも言うべき一時的な逃避行かもしれない。 その可能性をも否定する気はない。だが今現在、私の思いを虚飾せずに直訳すれば、やはり恐くないというのが正しいと思う。  真に恐れるべきは魂の腐敗である。 魂の腐敗とは? 私の心が生への渇望ばかりに向かい過ぎる事だ。生きたいと願う気持ちの反対は死にたい、なのだろうか? 言葉だけを並べると、そのように解釈するのが本当であるように思われる。 でも私には疑念が湧かざるを得ない。常日頃から生きていたいなんて誰も考えない。 実際に『死』を身近に感じるようになって初めて生きたいという感情は芽生える。 であれば、死にたいと願う時は『生』を身近に感じて初めて心に萌すのかと問われれば、無論違う。 『生』と『死』は、少なくとも死生観から見た場合に対極の観念ではなく、表裏一体、丸を象るウロボロスの蛇のようなものと私は解釈している。 であれば生死に拘り過ぎる醜態というのも、甚だ滑稽味を帯びるように感じてしまうのも無理からぬ事であろう。 『生』も『死』も同じなのだ。 これらを無理やりに区別して『生』だけを欲するなんて、子供の死生観そのものの癇癪でしかない。  ただ、こういう話をすると生死に関わる身体が有形物でしかない以上、一元論の立場をとる物理主義者のように誤認されかねないが、既に述べているように私は魂の存在を信じたい人間なので、どちらかと言わずに身体と魂からなる二元論者だと自負している。 もっとも、私自身はあくまで信じたいだけであって、それを証明する論拠はない。 近代哲学の祖であるデカルトの心身二元論は、私にとっても興味深い考察ではあったが、さりとて私に二元論の立場を立脚させる論拠足り得なかったのも事実である。 だから、私は二元論者でありながら、一方で一元論の考えにも耳を傾けざるをえない、なかなか意志薄弱な奴なのである。  もっとも私にとっての哲学は『死』を迎えるにあたっての恐怖に対する緩衝材のようなものであって、何かしらの私的哲学を構築して世に発表しようなどという気構えなど殊更ないのだから、そこまで重きを置いて考えずに、素人の浅はかさと専門家に笑わせておくぐらいで丁度良い塩梅なのだろう。 この感性も、人によっては楽観的に映るだろうか? そうかも知れない。私は、死後について楽観的だ。  生きているよりも、死んでいる方が遥かに楽な気さえしてしまうのも、私自身がまだまだ未熟な感性を拭い去れない故なのだろうか。 それもまた不思議な疑問だ。 生の楽観が未熟というのなら、生の悲観が成熟だとでも言うのだろうか。 生の悲観とは何か。  私はこの病院で死を身近に感じながら、神の気まぐれたる福音をただ恬然と待ち惚ける身なのだから、今を精一杯生きている学生や社会人よりも遥かに死生観について熟考する時間が長い。 自然と迫る『死』について真剣に向き合う機会が増えてみて、特に思う事がある。 今を忙しい人間――社会淘汰に日々を晒される人ほど、実は真剣に『生死』を意識して生きている訳ではないという事。 無論、今を忙しい人間が、いつ死ぬのかなぁなんて余計な事を考えている暇があるなら、もっと有意義に時間を使った方が良いと、病床に居ながら私も思う。  生死に対して真剣に考える等という事は、私のような終末期を迎えるような人間や、はたまた生い先短い老人の余暇の中で、好きに考えるが良い類いのものであって、一般に頭を悩ます必要はそう無い。 だが必ず一定数湧いてくるのだ。 自分自身の死に際も解らぬのに、他人の生死に対して異常とも思える執念でもって生命の素晴らしさを説く、生命至上主義の代弁者を自称する、理解し難い押しつけがましさを持つ説法者が。 彼ら、或いは彼女らの言い分は大概がこう始まる。  人間は貴い、至上の生物であると。故に、悲惨な死から極力遠ざけ、命が何にも勝るかけがえの無い一つのものであるから、どんな場合においても無碍にすべきではないと言う。 そして結びに、人間として生まれた以上生きる事は権利であり、その権利を何人も侵害してはならない、と言う。  ははぁ、確かに理がありそうな気もする。 だが、本当にそうであろうか。私も健康を害する事無く、世間の開かれた自由に未だ身を置いていたのなら、特に深慮する事もなく、なんとなく耳当たりの良い言葉に思わず納得してしまいかねないが、あいにく私にはそんな希望的観測は望めそうもない。 死を迎える準備を進め、覚悟も決めている身だ。  そうなると、これら生命至上主義の考えは、甚だ自分本位の、私たち死にゆく者の事など欠片も心配していない詭弁であると気付いてしまう。 おそらく、世界中の誰もが感じている『生命』に対する違和感は、生者の欺瞞から生じているのであって、その欺瞞を是正するには健常者が理をもって説明しても、生命への冒涜という不名誉なレッテル張りをされるだけであるから、矢張り命の尊厳を本当に守り議論したいならば、生者の欺瞞に晒されないよう私のような死者が言明し、かつ道を正していく事が本当であり、死者の最後の務めであるように思う。  話を戻すと、生の悲観と呼ばれるものは、生の執着と言い換えても良さそうである。 医療が日進月歩の進化を見せ、高齢者の平均寿命も高くなり、世界的に見ても有数の長寿大国となった日本において、確かに長生きは称賛されるべき事柄ではあるが、別に高齢者だって、長生きする事が目的で今日まで飽きもせずに心臓を動かし続けた訳ではあるまい。 日常の積み重ねの中で、気付けば長生きしていた、というのが実際のところであろう。  個人差があるから全員が、などと大言壮語する気もないが、この事からも現高齢者の多くが生命第一主義の人間ではないように思える。 ここは病院だから高齢者の方も多いが、話してみれば長生きしたいという人は意外な程少ない。 自分よりも孫とか、遺産分配とか、家の事とか、墓をどうするとか、自分以外の事に頭を悩ます人の方が圧倒的に多かった。 失礼かもしれないが、興味本位で死生観について聞いてみた事もあったが、だいたいが十分に長生きしたから別にという反応で、もし要望が叶うならピンピンコロリで大往生したいというものだった。  なんだかこの話を聞いていると、何が何でも生きているのが素晴らしいと宣う連中の程度の低さが露見され、怒りを通り越して哀れにすら思えてくるのである。 生命への執着から解放された老人は、話していて気持ちが良い。 だが、生命への執着に固執している人間は、見ているだけでも気持ちが悪い。 生命第一の考えは若年層ほど影響を受けやすく、成長するにつれ影を潜め、終には執着の輪廻から解脱するように思うのだが、この輪廻にいつまでも居座る低俗さは、いうなれば未練を残した悪霊そのものである。 年を経るごとに、その意思は強固かつ醜悪に歪みはじめ、精神は表象へと現れ始める。 生への執着が、人の品位を損なうというのも実に皮肉なものである。 私は死を願う者である。同時に、死を拒絶する肉体でもある。  知らない人からすれば気でも触れたかと思うだろうが、私は至って正常だ。 寧ろ問いたい。 私よりも真面目に死を望む者がいただろうか。 生命こそ至上の尊厳であるならば、私の願いは狂気めいて映るであろう。 だがしかし、私の前提では生命は至上のものではないのだから、格別の愛顧をもって『生命』そのものへの尊崇を持つこともしない。 私は不遜で不真面目であろうか? 違う。今の日本に蔓延する、恐怖に慄く腰抜け共が生に対して不真面目なのだ。  彼らの仮面を外してみれば、なんて事はない。 死ぬのが怖くてしようがない、子供の感性脱せぬ放蕩者である。 臆病者の泣き言に、死者がいちいち耳を傾けるであろうか。 いいや、傾ける筈もない。 死者が生者を憂慮するなど、荒唐無稽極まれりであろう。 これ以上、死にゆく私に余計な心配をさせるのも、それこそ無体というものだ。後はただ安らかに、そして綺麗に死なせておくれ。 さぁ、死の準備は整った。だからこそ生きよう。 私の人生にピリオドを打つその瞬間まで。 私の生きた足跡を、少しでも残したいから。 だから私はこの思いを韻律に乗せる。こんな世の中だから響いて欲しい、私自身による鎮魂歌。
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