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マンションまでの道すがら、彼は吉崎に聞いた。仕事戻るか?
吉崎はそれに、首を振った。そう、と返した小杉を見上げたとき、彼のけだるそうな表情を見つける。溶けて消えた声は、足音に混ざってしまった。このひとの歩き方はいつも目的地が定まっていないようで、ついて行こうと必死になる。
うち寄る? それとも帰るか? また彼に問われ、吉崎は一言、行くと返した。また小杉は、そう、と言った。帰る場所はとっくに決まっているのに、タクシーを拾うその瞬間まで、なぜだか行き先を曖昧に感じた。
帰宅すると彼は、あー食った、と言って首を回した。手を洗い、うがいをして、彼も同じようにそうして、リビングに入り、辺りを見回し、仕事机に並ぶ本と、おそらく赤入れが終わった原稿、それらを順に眺めながら吉崎は思う。このひととおれはずっと、分け隔てられてる。わけもわからず、その言葉が、ぽつりと浮かんだ。
仕事戻るか? と聞いてきたのは、仕事に戻って欲しかったから? おれが投げ出したみたいでいやだった? 今朝電話したときにあったほんの一瞬の間、あれはもしかして、しょっちゅう会いにくるおれが鬱陶しいとか? 仕事もできないダメ出しばかりされてるおれに、嫌気が差したとか? だからそう、セーブし始めた仕事のことも悪評スレッドもランドリーが中学生の作文みたいに言われてるなんて、おれに言わなかった?
心のうちで首を振る。スレッドは連載開始からだろうけれど、ランドリーへの批評は再会するよりおそらく以前だ。寝不足で体調不良だと普段は及ばない箇所に影響が出るのか、疑心暗鬼になってしまう。そうじゃない、ちがう、正しいこと、正解、信じる、それらが些細な出来事で緩やかに欠けていく。溢れて失くした隙間を、なだらかにしていく作業が、今はとても難しい。
「おまえ、寝不足ならもう寝る? シャワー浴びるか。勝手に使っていいぞ、俺もうちょい仕事するわ」
「仕事……?」
「あれ? どしたー? 構って欲しかったか」
へらっと表情を緩ませる小杉に、吉崎は足音をずるずる鳴らして近づいた。シャワーは浴びたいよ、だって昨日風呂入ってないし、でも、だけど。
「なあ」
だめだもう、黙っているほどおれはまだ大人じゃないし賢くも品性のある読者でもない。察しろってなんなんだよ北村。
「仕事、セーブし始めてるって、ほんと?」
「は?」
「今日、先輩に聞いた。現藝の文芸部で噂になってるって」
休むの? と小さく続けても小杉は、さほど驚いた様子もない。世間話の続きとでも思っているのか、表情に変化もない。
「あー、もうそっちでそんな話になってんの。情報はえーな、さすが週刊誌」
「茶化すなよ」
「茶化してねえよ。つーか休むなんて言ってねえっつの」
え? と見上げると、彼は吉崎の頭を撫でた。ちょっと触らないで欲しい昨日髪洗ってない、などと筋違いな言葉が浮かぶ。
「まあ、今まで働きすぎたしなあ。アウトプットしすぎたっつーか、ここらでセーブしてもいいかもなって」
ふっと目線を逸らされ、けれどその目はパソコンに向いている。
「なんで言ってくんなかったの、おれに」
些細なことだった。吉崎からしたら、ほんの微細な。
話して欲しかった、第三者から聞く他人事のような話題に乗るのがいやだった、それこそSNSで散らかる確証を持たない言葉の羅列に、逐一反応するようで。だからちゃんと、このひとの言葉で聞きたかった。
「いや、なんでおまえに言わなきゃなんねえの?」
「え? なんでって」
吉崎は、SNSは苦手だ。仕事上見なければならないことも多いが、個人主義の呟きにまったく興味を惹かれなかったから、必要最低限の情報しか見ないようにしている。
「俺の仕事をどうするか、おまえに聞くの? はは、なんでだよ」
あんたの、声と言葉で、聞きたかった。
だから悪評スレッドもランドリーの批評もどうでも良かった、要らない。要るのは、このひとの言葉だけだったのに。
「そんなん、あんたから聞きたいじゃん、普通に。おれ先輩から聞いたんだよ? いやだろ、いやなの。わかんねえ?」
「いやだから、俺の仕事とおまえの仕事は違うっしょ。朝何時に起きたとか夜何時に寝たとか、そういう生活の一部みたいなもんを、いちいちおまえに報告すんの? 仕事セーブしようと思ってんのは俺の意思で、そこにおまえは関わんねえだろ。関係あんのか? ねえだろ。おまえの仕事じゃない」
小杉を見上げ、何度もまばたきする。彼はと言えば、吉崎が何をそんなに頑なに主張しているのか、それさえ理解していないようだ。なにそれ、と言いたくて口を開ける。温い空気が喉に伝って、がさがさする。
隔てられた、と思った。とん、と肩を押して追い出された、学生のころの自分のようだった。もう、違うのに。
「……じゃねえよ」
「は?」
「子どもじゃねえっつってんの!」
噛みつくほどの勢いで詰め寄ると、小杉は吹き出した。手の甲で、口元を押さえている。
「あのね吉崎くん、大人子どもの話じゃねーでしょ。仕事の問題。俺の仕事と、おまえ自身が無関係ってこと。わかる?」
わかる、言いたいことはわかる。理解はできるし彼の言うことは正論で、正しい。でも、じゃあ、無関係の話は一切しないとすれば、仮に吉崎が無職になるとか例えば田舎に帰るとか、自分がそれを決断し決行する場合、小杉への配慮は要らないと。おれがおれの意思で決めたことだから?
それは違うじゃん、絶対に。
「わかんねえよ! じゃあなに? 連載の悪評スレッドもランドリーの批判も、それもおれには関係ないから言わねえの? つーか、セーブすんのそれに関係あるわけ?」
「話飛んだな、おまえ困ったちゃんか」
「だから茶化すなって!」
深々と息を吐き、彼は頭を掻いた。仕事机にぽつんと置いてある、煙草を手に取り火をつける。ふわりと、煙の匂いが瞬時に香る。
「悪評なんちゃらってやつは、まあどうでもいいよ」
「え?」
「関心なけりゃ誰もなんも言わねえだろ。だから逆に、ありがてえなーって思うけど」
だからそういうんじゃない、と言う彼の、僅かに覗く普段と違う表情が、今まで見てきたどの顔とも違う。隙? という解釈でいいのか、わからなくなる。ずるずると、また少しだけ足を引きずって動かした。
「ランドリーの批評も聞いたけど、あのせんせーってなあ、くそほど面白え小説書くんだな、これが。だから別に、間違っちゃねえよ」
え? と言った声が小杉に届いたのか、あるいは声そのものが出ていないのか、吉崎の耳をとっくに通過したあとで、反応するのが遅れてしまう。
「なんで売れたんだろうな、あんなつまんねえ小説」
ああすごい、宙に煙が舞って、蛍光灯に照らされて陰ができた。追いかけているとまばたきもできず、みるみるうちに目が乾燥して渇いていく。その煙のせいで瞳が、水分を欲して滲んでくる。
だからさあ、穏やかに過ごせる自信がなかったんだ。寝不足だし首も体も痛いし隈できてるし、いちいちもう、水が目の中に浮かぶ。
「帰る」
「そう」
そう、の言い方が、路上で聞いたものと同じで、無関係だと言われている気分だ。
「仕事戻んのか?」
「ちっげえよ! あんたじゃねえんだからよ!」
小杉に背を向け、リビングのドアを開ける手前で、彼は吉崎を呼び止める。振り返って、驚いた。
「おまえ、いくつになった?」
誰かおれを締めつけて、ぶん殴って、お願い。
「二十四だよふざけんな!」
玄関を思い切り開閉し、小走りしてマンションを出て行く。小走りから足を早めて、速度を上げる。呼吸が忙しくなり、喉に直接空気が触れる。痛くて、かさついて、仕方なかった。
必要だと信じていたひとの言葉は、欠けてひびが入ったかたまりの部分に、思い切り釘打ちするものだった。
あのひとは、誰を見てるんだろう。おれを見た表情が柔らかすぎて、学生時代の自分を蹴っ飛ばしてやりたくなる。
再会ではなく今出会った関係だとしたらおそらく、あのひとはおれに恋をしないんじゃないか。
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