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 午後二時半の景色を思い出すのは大概夜だった。  あの場に立ったとき、ざあっと吹いた自然風まで大きな音に感じたのを覚えている。周りは一面の緑。もしや自分は、そこに囚われてしまったんじゃないか。だだっ広い景色のなかでおりなす自然の音に、とっ捕まってしまった。  立ち尽くしてしまったら、この場から二度と動けないんじゃないか。そんな突拍子もない思考が浮かぶほど、あの場所は広大だった。目を閉じると、いっそう強く感じる。 「連載半年、おめでとうございます。回を重ねるごとに好評で、小杉先生には大変感謝しております」  目を開けた先は、妙に静かだった。当然だ。場所は個室で仕切られた料亭だったからだ。週刊現藝の連載担当者である水野と、デスクの佐々木が深々と頭を下げているのがよく見えた。いえいえ、と小杉が首を振ると、笑んだふたりの表情が見て取れる。ここって幾らすんだろなー、と考える自分は、明らかに無粋だ。  この日は週刊現藝の接待を受けていて、仕事の話が主だった。今後の計画や、刊行するとしたらいつ? 等々。合間に雑談も交わしながら、和やかに会話は進んだ。彼らのひとを不快にさせない穏やかな口調が、印象的だった。  談笑が進むうちに、ああそうだ、と水野が言う。彼が飲む日本酒の入った切子のグラスが、照明に当たってきらきらと眩しかった。吉崎が、と水野が口を開いたとき、小杉の手が一瞬止まる。悟られないように、ゆっくり切子のグラスに手を伸ばした。こちらはブルーが鮮やかな、光が反射するといっそう美しかった。 「編集部にいる吉崎が現藝の見本誌をいち早く手にするんです。小杉先生の連載を読むのが楽しみなんだって」  ああー北村もな、ふたりで競ってますよね、水野と佐々木デスクは、顔を見合わせてくつくつと笑った。現藝の編集部は、基本的に担当者とデスクしか原稿は読まないのだそうだ。個々の仕事で手一杯というのが理由だという。ときどき、文芸班で回し読みすることはあるが、時間の関係上基本的には出来上がった原稿はすぐにデスクに引き渡す。  小杉は今まで何度か週刊連載の仕事を請け負ったことはあるが、こういった週刊誌では初めてだ。だから、内部事情を仔細には知らない。毎日慌ただしいことくらいしか。小杉の担当者である水野も、小杉だけを抱えているわけではないだろう。  週刊現藝が出来上がると、まずは見本誌が届く。小杉も、書店に流通する前に、それを受け取っていた。編集部では、競うようにして手に取るのが吉崎らしい。彼の先輩に当たる北村と取り合いになり、言い合いになることも多々あるのだと彼らは言う。 「へえ、我々のような職業からしたらとてもありがたい存在ですね」 「小杉先生、覚えていらっしゃいませんか? 僕が入院中に、先生にご挨拶に伺ったのが吉崎です」 「はいはい、覚えてますよー」  この日に出てきた焼き物は、合鴨ロースだそうだ。柔らかくて、うまかった。ただ、小杉の舌はまったく敏感でも肥えているわけでもないので、ただ、うまかった。伏せた目を、合鴨に移した。うっすら色づくサーモンピンクが、とても見栄えが良かった。  吉崎はどうやら、小杉との関係は漏らしてはいないようだ。ふと感じた視線の主は佐々木デスクで、顔を上げると緩やかに微笑んでいる。些細な表情の変化にひとつ、食えねえー、と思った。彼は、会話のひとつひとつがなだらかで、言葉を誘うようでもあるのに無理強いはさせない。賢いなあ、と合鴨ロースを口に入れた。柔らか、と言うと彼らも、いやほんとに、とまたグラスに口をつけた。  現藝で週刊連載を始めてから、半年近くたっている。一年の連載を予定していて、もう半分経過した。売り上げも伸びていて、編集部へ送られてくる感想も増えてきたと聞く。転送はまとめてもらっていて、必ず目を通していた。マーケティング戦略も必須だからだ。好調であるとその反面、迷いも出てくる。鬱屈と似て非なるもの。これでいいんかねー、とわけもなく思う。「これ」を指すものが、迷子になる。  仕事の話と雑談をうまく併用しながら、食事を終えた。次行きますか? 定型文のような流れに、小杉は首を振った。ならタクシーを、と水野は言う。小杉はそれにも、首を振った。  自宅マンションからは遠くない。近場を選んでもらっていたからだ。ほかの仕事もあったし、タクシーを使うのも電車に乗るのも面倒だった。散歩がてらに行き帰りできる距離が、ちょうど良かった。 「散歩したいし、歩いて帰ります。今日はごちそうさまでした」  小杉が頭を下げると、水野は慌てるようにしてもっと深く頭を下げた。今後ともよろしくお願いします、そう言って。  デスクは? 彼が聞くと、俺も適当に帰る、お疲れさん、と言う。お疲れさまでした、水野はまた頭を下げ、背を向ける。足が向かう先は、駅方面のようだ。お疲れー、と心のうちで言い、小杉はゆっくりと息を吐いた。  見上げた空には星が見えなくて、一面緑の青田が映画のエピローグに似た形で浮かぶ。ざあっと吹いた風に青臭さはまるでなく、埃っぽさが混じっていて、まばたきをする。  小杉先生、と呼ばれ、彼に向いた。佐々木デスクは小杉より、僅かに目線が高かった。 「お時間いただき、ありがとうございました」 「いやいや、礼を言うのはこっちです。ありがとうございました」  不意に、佐々木デスクが笑んだ。くるな、とわけもなく気づく。 「吉崎は、本当にあなたのファンでね、小杉先生小杉先生って連載前からうるさくて」 「そうですか」 「私自身もあなたのファンのひとりですし、今回の連載は現藝にとっても大変なプラスです。以前の作品で恐縮ですが、ランドリーも素晴らしかった。部内でも、あの作品のファンは多いんですよ。今後とも、どうぞよろしくお願いします」  深々と頭を下げられ、小杉も下げる。そんなに素晴らしかったっすかね、となぜだか八つ当たりのような口調が体の中に舞った。あんなもん、ほんとにいいか? なんて。 「いやいや、ほんとにね、読者さんと仕事あっての我々ですんで」  ありがとうございます、と返しつつ、腹の底に滲む言葉の数々を、さらえて自分で食っていく。聡い彼に、見えない場所で。その後、互いに挨拶をし合い、この場を離れた。  ちょうど鳴った着信音は、ラインのメッセージを報せるものだ。手軽だなあ、といまさらのように思った。パソコンと同期させられるこのアプリは、データ添付や連絡手段が簡単で、手軽さがある。なんだか覗き見されているようだと、ふと思う。送信相手は吉崎だった。  お疲れさま。今から帰る。寄ってもいい? 今日接待だったって聞いた。  絵文字も何もない文面は、素っ気ないのに彼によく似合っていた。短文が、ぶつぶつと並んでいるのも。  どうぞ。接待でした。歩いて帰宅中。送信して気づく。自分だって変わらない。  マンションの前につくと、吉崎が立っていた。たた、と靴底を鳴らして寄ってくる彼は、仕事の疲れも垣間見せないほど笑顔だった。 「おかえり」 「はいはいどうも」  同時に歩き出し、オートロックを開け、エレベーター、玄関ドア、部屋に入るまでおよそ五分間。彼はその間、小杉の返答を待っては喋っていた。接待ってどんな店だった? うまかった? 楽しかった? 小杉に次々と質問を浴びせる。和食、うまかった、楽しいっておまえ仕事だからね、それ以上はなし、そうして答えると吉崎は、その都度小杉を見上げた。  部屋に入り、灯りをつけ、手を洗う。続いて彼も手を洗い、リビングに入った。 「おまえメシ食った?」 「うん、仕事しながら適当に」  けれどコンビニで買ってきたらしい缶ビールを彼は取り出し、すぐにプルタブを開けた。小杉は頭を掻いた。そうだった、こいつもう学生じゃなかった、と。  未だに慣れないのだ。再会してからもう半年以上たっているのに、彼はもうとっくに二十歳も越え、働いていて、週刊誌の編集部に所属していることが。グルメ班ではあるのだけれど、自分と近からず遠からずの場所にいて、そのうえ小杉の仕事相手に当たる。この事実に驚愕したのはもう半年前で、そのころから結局こうして過ごしている。もう大人がしても許される行為、たとえばこうして飲酒をするとか、セックスだってそうだ、未成年に手を出したから、などという理由で隠さなければならない存在ではなくなった。  唐突に、そこに頭が追いつかなくなることがある。吉崎はあれから六年を重ねたのに、未だに兼ね備えている濁りのない純粋さで、小杉を圧倒する。もう無知で不憫な子どもじゃないから、へたな言い訳も通用しなかった。 「吉崎くんねー、編集部で俺の話ばっかしてるんだって?」  口から缶を外し、彼は突と驚いた。 「誰に聞いた?」 「水野さんも佐々木さんもなあ、言ってたよ」  見本誌の取り合いだって? おめーはよーばかじゃねえの? いつでも読めるでしょーが。ぼやきながら、薄手のジャケットを脱いで椅子に引っ掛けた。接待など、形式ばった食事会でよく使うものだった。 「ばかじゃねえし、ばっかりじゃねえよ」  ばっかり、あんたの話ばっかりじゃない、訴えるように小杉を見上げてくる。うーん、と思う。何が何に対して、うーん、なのかはわからない。ただ、うーん。  だっておまえそのひたむきさはなんなの、陰りのなさはなんなの、太陽の子はいつまでも太陽の子なの。詰め寄るでもなく、詰るでもなく、ただ、教えてほしかった。それはいつまで続くのかを。 「別に変な話してるわけじゃねえし」 「知ってるよ」 「でも隠さなきゃいけないこと?」 「おまえが可愛い声上げていっぱい泣いちゃうことを?」 「相変わらずさいってーだな」  答えが出ないときにこうしてはぐらかすのは得意なほうで、文字に収まらない疑問を解決するのはどうしても苦手だった。  俺は作家なのにね、きみにまつわる言葉を探すのがすごく苦手。だからときどき、疎ましくなる。けれど、自分がおよそ知り得ないだろうことはなんとなく予想はついた。その疎ましさの正体を、俺はずっと知らずに生きてきたから。 「まあいいや、もうやらせろよ」 「え、まだビール飲んでない」 「すげえよね、学生さんじゃないんだもんな」  いまさら? たまに忘れんの、そんなとりとめのないやり取りを部屋に残して、結局ビールは残ったままになる。  泡が少なくなって消えては弾ける音を、吉崎を抱き締めながら想像する。
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