2-2

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 夜の駅前はざわざわしている。午後七時を過ぎた街灯だらけの街中は、なんだかとても忙しく見えた。  そこかしこで散らばる靴音と会話を拾い集めたら、「隙」というのは生まれるのだろうか。たくさんのひとが吉崎の前を通りすぎ、高低も声色も違うさまざまな声と靴音が、交わらない音で重なった。鈴の音のように、ひゅん、と横切ってしまえば、一瞬で消えた。拾うこともならなかった。  斜めがけの鞄を持ち直し、チノパンのポケットに手を突っ込み、吉崎は夜空を見上げる。相変わらず、星は見えない。人工的な光の力が強すぎるせいだ。  あくびを噛み殺すことなく、大きく口を開けた。一応、手で口元は覆っている。急に動かした首の筋に、ぴりっとした痛みが走る。首をぐるりと回して緩和させようとするものの、それもいまいちだ。寝不足と体の痛みは、やわらぐことはなかった。  原稿は書き上がった。いや、書き上がらなかった、と言うべきか。佐々木デスクに提出すると、彼は吉崎を見上げた。そして一言。  ――もういい、俺が書く。  頭がぎゅうっと、緊箍児で締め付けられたようだった。孫悟空の頭を、呪文を唱えると締め付けてくる輪っか。いてえー! と喚き散らして走り回ることができたらどれだけいいだろう。それもままならないほど、どこもかしこもぎりぎり締まって、鼻でゆっくり呼吸をするだけで精一杯だった。ずる、と鳴って、そうだった、と思い出した。仮眠室のせいで、鼻も調子が悪いのだ。 「なんだあ? 泣いてんのか」 「泣いてません。仮眠室のせいです」 「なんだそりゃ、おまえ今日は帰れ」 「で、でも……!」  食い下がると、佐々木デスクは吉崎を睨み上げる。 「でももくそもない。そんなツラされてたら邪魔だ。この原稿は急ぎでもない、とりあえず帰って遊ぶか寝ろ。おまえ顔見てみ? ひどいから。はは」  隈、眉間の皺、ぶさいく。たん、たん、たん、とピアノで同じ鍵盤を強く叩いたみたいな音で端的に言われ、吉崎は頭を下げて席に戻った。鞄を手に取ると、北村がこちらを見ている。 「帰んの?」  吉崎は頷いた。 「おまえよー、小杉先生とプライベートでなんかあるわけ? あんな噂、どっかで飛び交うもんでしょうが。読者なら察しろよ」  言い返すのも反論も、当然肯定も面倒で、首を振るしかしなかった。 「まあいいけど、仕事にプライベート持ち込むなよ。プロ失格。お疲れー」  口を開くのもいやで、吉崎は編集部を出た。  夜そっち行く、と今朝電話で告げて小杉との通話を切ったので、吉崎は会社を出てから彼に連絡をした。仕事終わった、今から行きます。とラインを打つと、着信があった。電話だった。通話ボタンを押すと小杉はいつもの調子で、どうも、と言う。吉崎は変わらない口調の彼に、返事をすることができなかった。 「吉崎くん? どしたー?」 「あ、いや、ごめん、なんでも。今から行く。メシ食った? なんか買ってく?」 「あーいや、どっかでメシ食わねえ? グルメ班のおすすめ、あるだろ」  急に言われてもいきなりは出てこず、調べてラインする、と伝えて通話を終えた。電車の中で、今度先輩と取材の算段をしているスペインバルの店をラインに添付した。本当は、もっとほかにもあった。静かな、個室の、雰囲気のいい、周囲の喧騒から一切遮断されたような、電灯色のゆらめく照明に思わず肩を寄せ合ってしまいそうな。そんな夢見心地の店は当然知っているのだが、ざわざわしてやかましい、何を喋って仮に何かで喧嘩したとしても周りから見破られる可能性の低い、そんな店で今はちょうど良かった。  だって、喧嘩したらどうすりゃいいの、おれ寝不足だし顔はぶさいくだし隈だし眉間に皺だし。穏やかに過ごせる自信が、まったくない。  最寄駅の駅前で待つか、現地集合か、どちらかと小杉に聞くと駅集合とのことだった。おそらく彼は今日、電車に乗ってもいい気分だったのだろう。吉崎は駅前でしばらく佇み、ようやくスマホを取り出した。着いたよ、と送ると、終始マナーモードにしているせいで送信音はならない。吸い込まれるように、画面に文字だけが浮かぶ。  おい、と呼ばれて振り返った。吉崎が見上げる位置に顔がある小杉は、駅構内の灯りが背後から当たっている。彼の横を何人ものひとが通り過ぎるたび、陰の形が変わった。小杉はいつも通り、無精髭に眼鏡で、だらっとした格好をしている。白の無地のカットソーにカーディガン、デニムにスニーカー。その辺に置いてある洋服を引っかけて来ました感が否めない。 「タバコ臭い」 「ごめんねー」  軽口もいつもと変わらず、普段通りだった。店どこ? と彼は聞く。こっち、吉崎が歩き始めると、彼もついて来た。身長が違うから歩幅も多少違う。さっさっ、と吉崎が足を動かすのに、彼はひどく緩慢だった。見上げると彼は気づき、んー? と、だるそうに返答する。ぎゅうっと狭くなるのは、今度は体だった。体のなかの、もっと狭苦しい箇所。吉崎の体の至るところに、緊箍児が植え付けられているようだった。  入店した店は騒々しい声が満ちていて、満席に近い。予約した吉崎です、そう言うと席に案内された。本場のスペインバルは立ち飲みだったり席が決まっていない場合が多いが、この店は違う。国の違いも当然視野に入れ、気楽に長時間楽しめる配慮か、テーブルも椅子もセッティングされていた。接客も、照明の具合も悪くなく、若いひとたちに人気がありそうだ。席の幅もほど良くて、かかる音楽の音量も悪くない。隣の会話が聞こえそうで聞こえないのは店内が元々騒がしいのもあるのかもしれないが、おそらく、音楽と席の組み合わせの調和が取れているからだ。  周囲をくまなく見回していると、小杉はひとつ、笑みをこぼした。 「お、吉崎くん仕事ですかー?」 「からかうなよ」 「でも悪くねえな、すげえ飲めそー」  彼は辺りを見渡し、目が合ったスタッフに手を上げた。小杉はスタッフの男性に、おすすめなんですか? ビールだったらどれがいい? そういった会話を、緩やかに始めていく。吉崎くんビールでいい? 頷くと彼は、じゃあビールふたつとあとはー……。  何品か料理を注文し、最初にきたビールを飲んだ。続いて、ソーセージ、生ハム、ガンバスアヒージョ、チーズの盛り合わせ、野菜のマリネ、時間がたったところで、魚介のパエリア等々。ずらりと並んでいく。食える? と聞くと彼は、余裕でしょー、と新しいアルコールを頼んだ。ワインのおすすめは? 今度はそう聞いた。吉崎は思う。こうして外で食事をするとき、いつも思い出すのだ。ふたりがまだ、海が近い土地に住んでいたころのことを。  高校生のころ、ふたりで初めて行った食事の最中に吉崎は、小杉の仕草に心が立ち尽くした。そのときも彼は、はっとするような表情を見せたのだ。小杉は吉崎よりもずっと向こう側に立つ大人であること、場慣れしていること、自分とはまったく違う世界で生きてきたことを、切れ味のいいナイフで思い切り叩っ斬られた気分だった。そのうえ、この場の雰囲気を遮らないための言葉さえわからない学生の自分に、なんでおまえは学生やってんだ? と、的外れな質問まで投げた。  は? だ。何言ってんの? だ。「学生」だからだ。それ以上も以下もない。そこに疑問を投げかけられても返答に困ったし、呆気に取られた。学生に何言ってんだこいつって。けれど、そうじゃなかった。彼は見透かしていたのだ。「学生」の自分を持て余して、「学生」だから「学生」をする吉崎を。奔放で活発な意欲などなく、「学生」という理由しか見当たらなかった自分を。愕然とした。追い詰められた。がんじがらめに囚われて、このひとには太刀打ちできないと知った。  その彼は今もまだ、同じ表情をして見せる。ひょいっと何もかも捨てて、自由に、そもそも彼に荷物などあるのか、いつかどこかへ身軽に飛んで行ってしまいそうだ。 「なあ」  どきりとした。不意に声をかけられ、心臓が跳ねる。数秒焦点が合っていなかった。 「隙、わかったか?」  吉崎は首を振った。 「原稿、書いたけど結局ボツで、最後はデスクが書くって……」 「だと思った。おまえすげえ顔だもんな、ぶさいくー。はは」 「悪かったな!」  かっこ悪い、と思った。それでも喋っている。甘えたところで、最後仕事に立ち向かうのは自分なのに。かちゃかちゃとフォークで皿を鳴らし、野菜のマリネを口のなかに放る。 「吉崎くん、きみねー、目がいいんだよ。舌も肥えてる。未だにコンビニのおにぎり嫌いだろ?」 「うん、嫌い」 「このパエリア何色? 赤? 茶色? 貝の色があるから黒か?」 「え?」 「チーズだって、その辺に売れてるもんじゃねえぞこれ。うまいし」  吉崎は、何度もまばたきする。 「なあ、あの辺に座ってる会社帰りっぽい男ふたり、何話してんだろな」  彼は視線を斜め後ろにずらし、さして気遣う様子もなく眺めている。 「は? わかんねえよ」 「案外、このあとどっか行くんかもな。えろいことしちゃったりして、俺とおまえみたいに」 「ば、ばかじゃねえの?」  フォークを持つ手が揺れ動いて、今度は大きく皿に当たる。小杉は肘をつき、歯を見せてあどけなく笑っていた。 「佐々木さん、あのひとやり手だからなあ。言われたんだろ、情報に捉われんなってとこか?」  息を吸い込むと、鼻が鳴る。だからそう、鼻も喉も、調子が悪いのだ。唾を飲み込むと、喉も少しがさがさする。 「隙なんて、その辺にいくらでも転がってる。今、この時間にも」  彼はワイングラスを手に取り、ぐいっと飲んだ。何杯目かわからない注文をし、今度は料理に手をつける。  ずるい、と思った。前と同じだ。ふとした一言で、おれをぎゅうぎゅうに締めつける。頭も体も手足も、ぎゅうーってこのひとでいっぱいになる。  小杉先生まじで休むんかな。  今日、編集部で北村は言った。見本誌を読んでいたときだ。振り返った吉崎は彼を、はあ? と睨む。  おまえ、小杉先生けっこう叩かれてんの知らねえ?  え? と口を開けた。北村の言葉を、朝からずっと咀嚼できないでいる。  今の連載もさあ、悪評スレッド立ってるもん。ランドリーが売れてすげえ時間がたってから大御所作家がwebの記事でいきなり言い出したの、それくらいおまえ知ってるだろ。は? それも知らねえの? おまえはなあ、ほんとにライターか? その作家、あんなもん中学生の作文だ、小杉遼太はエンタメしか書けないのを逆手に取ってそれが話題になっただけだ、情緒も何もあったもんじゃないってさ。そっからさあ、SNSで荒れたじゃん。え? おまえそれも知らねえの? まじかよ嘘だろ。まあ話題作だったし、大半がやっかみだって思ってるけど、ああいうのってやっぱ堪えんのかね。  北村、まじでまじでまじで! なあ先輩、おれが今日ぶさいくなのは全部あんたのせい。  緊箍児よ、今すぐおれを締めつけておくれ。
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