3-1

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 施設の図書室には、黄昏時に三分の一ほど西日が当たる。施設内で広めに設けてあるのは図書室だけで、それは施設長の趣味だからだと誰かから聞いたことがあった。  小杉が中学校からあそこに帰る時間と、西日が沈み始める僅かな瞬間が重なることは少なくない。ああ三分の一の時間、と思いながら空を見上げることがしばしばあった。  小杉が初めて手に取った小説は、中上健次の「十九歳の地図」だった。施設長の趣味で置かれている数々の小説のなかで、タイトルと黒いガラクタが積み上げられた表紙が気に入った。最初はただの暇潰しにここに来ていて、読む気はなかった。けれど、ぺらぺらめくると手垢のついた紙と埃っぽいような少し懐かしくなる匂いに、惹かれるものがあった。小杉には、故郷などどこにもないのに。  遼太は本が好きか?  振り返ると、図体のでかい施設長が立っていた。スキンヘッドに丸眼鏡で、顔も大きいから眼鏡のテンプルの部分がいつも、こめかみ付近に食い込んでいた。小杉は彼を見上げ、首を傾げる。好きかどうかはわからない。そう答えると彼は言う。  好きかどうかわからないのは寂しいな。  施設長は大きな手で小杉の頭を撫で、一冊の本を手に取り、すぐそばにある椅子に座った。同じく中上健次の、「千年の愉楽」だった。漢字の読み仮名と言葉の意味がわからず、施設長に読み仮名を聞き、辞書で引いた。「愉楽とは、深い喜びを味わうこと。心から楽しむこと。悦楽」だそうだ。ふーん、と思いながら初めて読んだ小説は、わけがわからなかった。  なんだこいつ? は? 小杉が見も知らない他人に悪態を吐きたくなるのは初めてで、中上健次の小説にむしゃくしゃした。ああーもう意味わかんねえー! 二段ベッドの上段で、寝転びながら読んで叫んだ。同室の同い年の男が自慰していたのも知っていたが、お構いなしだ。遼太うるせえ! 今いいとこだった! そう言ってベッドを下から蹴り上げられた衝撃があった。壊れても知らねえぞー、と笑った。  高校へは進学しないことに決めた。特別進学する意味が見出せなかったからだ。働けるのなら、早く働きたかった。施設内のスタッフは全員、進学を勧めた。遼太は賢いんだから、遼太ならいい高校行けるよ、高校は卒業したほうがいい、彼らは小杉に意見を浴びせるたびに焦りと困惑が見せたがただ一人。施設長だけは違った。  好きにしな遼太、てめえの人生だ。  大きな手は、がしがしと小杉の頭を撫でた。でもその代わり、そう言って彼は、小杉と目線を合わせる。  好きなもん見つけろ。なんでもいい、悲しくなるくらい大切なもの。  小杉はおそらく、生まれて数ヶ月後にこの児童養護施設の前に置き去りにされている。与えられた誕生日は、施設の前で見つけられた日だそうだ。一旦乳児院に預けられたそうだが、引き取り手も両親も結局見つからなかった。施設長の算段でもう一度ここに引き取られ、小杉が物心ついたときにはここで過ごすのが普通になっていた。  いろんな事情を抱えて、それでも生きることを余儀なくされた子どもたちがここには何人もいて、無残な場面にも何度も立ち会った。逃走は日常茶飯事だし、警察沙汰もしょっちゅうあった。ただ小杉は、さらりと流れるように生きられた。他者と自分の区別は簡単にできたし、根を生やさないような性分で平気だった。三分の一の時間の図書室が、好きだったからかもしれない。  それから数年、中学校を卒業するころには、中上健次にむしゃくしゃすることもなくなった。図書室の本は、片っ端から読んだ。読書は好きだし、読書をして適当に働ければ良かったから、勉強も青春にも惹かれなかった。  悲しくなるくらい大切なもの、この世に本がなかったらいやだ。そのときはまだ、この程度しか考えなかった。  児童養護施設から退所した小杉を待つ現実は、世知辛いものだった。戸籍や住民票を新たにするにも手間がかかり、住む場所にも保証人が要る。施設長や孤児をサポートする団体に手助けされ、働き先も施設長の知人の紹介を受け、スーパーの荷下ろし作業から始まった。こりゃ進学がマシだったか、と苦笑する日々が大半で、けれど自分で稼いだ金で買えた初めての小説を読んだときの悦びは、絶頂より何倍も興奮した。袋から取り出すときは腹の底から吐き気をもよおすくらい緊張したし、開いた本は真新しくて、触れても指先が汚れてがさがさしなかったことにも驚いた。手垢も何もついていない、クリーム色の紙に頭のなかの酸素が足りなくなる。  声にならない声、とはまさにこれで、見たか中上! と、自分のことをまったく知らない亡き彼の周りをぐるぐる回り、言いがかりにしかならないいちゃもんをつけてやりたくなった。 「はは……、はは! うあー! あー! ああーもうさいっこう!」  自由だ。俺は自由だ。万年床の布団の上を、買ったばかりの小説を抱いてごろごろ転がった。  おそらくこの世には不自由と自由が両方転がっていて、けれど平等ではないのだろう。どちらも掴めるし、どちらも掴まなくてもいい。勝手にやってきて、自分で取捨選択する手段を持たなければならない場合もある。片方だけを持っていても幸福とは呼べないかもしれないし、たとえ自由を選択したとしても、幸せではないのかもしれない。  だって自由なんて、不自由さを知るうえで成り立つものじゃないか。だからもうじゅうぶん。俺はこれでじゅうぶん。  悲しくなるくらい大切なものも、好きだとわからないのが寂しいのも、きっと、自分が不自由で仕方ない気がする。  小杉は中上健次の「十九歳の地図」を抱いて眠った。 「また並んだな、遼太の小説」  相変わらず、施設長はスキンヘッドで図体も顔もでかい。テンプルはこめかみに食い込み、豪快に笑うと地面が揺れるくらい声が大きかった。 「子どもたちは、読んでますか?」 「たまになー。ただ遼太の小説は子どもにはなかなか勧めらんないだろ。俺は自慢するけどね」  小杉は自分の小説が刊行されるたび、住んでいた児童養護施設の図書室に置かせてもらっていた。デビュー作は、中学生の少年とその母親のヒモの物語だった。それを持ち、施設に報告に訪れたとき、彼は泣いた。ぼろぼろ溢した涙で、眼鏡がびしゃびしゃに濡れた。次も持ってきた。タイムカプセルを掘った同級生同士で、殺人容疑をかけ合う小説だった。その次も、またその次も、刊行されるたびに小杉は、施設を訪れた。ランドリーもこの本棚に、並んでいる。  背の部分の文字を、ゆっくりとなぞった。ランドリー、と口の中で呟き、すぐに唾と一緒に飲み込んだ。 「悲しくなるくらい大切なもん、見つかったか?」  小杉は曖昧に笑んだ。悲しいのか、寂しいのか、やはりあの子に関しては、言葉を選ぶのが困難だ。いっそのこと日本語でも何語でもなければいいのに、と思う。あの子と過ごした日々は、不自由だった。どうしようもなく、小杉の自由を奪われた。ならいっそ、不自由さを残したまま、解読できずにいられるならそっちのほうがよほどマシだった。 「正直、ここにいて本ばっかり読んでたときが一番楽しかったです。文字は無限だって、わけもなく信じていられました」 「どうしたー? なんかあったか?」  裏も表もない、からりとした笑みが特徴的な彼は、まだ小杉の頭をがしがしと撫でる。痛いなあ、と痛くもないのに言うと、少しだけ手の力が緩んだ。見上げると彼は、目尻に皺を寄せながら目を細めている。 「今は、今だけじゃない。文字は無限なんかじゃないし、もうやめちまうかって思ったこと、何度もあったんです。稼ぐためにウケ狙うこともあったし、そうじゃないときもある。忙しくなればなるほど、俺が書きたい小説ってなに? って思うんです。でも仕事はくるし、食わなきゃなんねえから書くし、ありがたい話なんですけどね。そういうとき、ここで本眺めてたのを思い出すんですよ。ああー楽しかったなって」 「そっか」  高校生の群像劇、出所したヤクザが更生できなかった話、等々。本屋大賞を取った小説は、父親殺しの罪を母親に被せ児童養護施設で育った少年が幼馴染のために殺人を犯す話だった。そのなかに、異色の小説として「ランドリー」は加わり、世間は驚いた。「初」という言葉が加えられると、初版の発行部数の上乗せに繋がる。結果売り上げは伸びたが、針の筵にいるようでもあった。インタビューには卒なく答え、次回作も視野に入れ、あんなもん面白いか? これが売れんの? 嘘だろ。そんな内心をおくびにも出さずに日々を過ごした。  不自由さを言葉にする無限の文字は、書く最中も書きあげたあとも結局見つからなかった。これじゃあただ、あの子に綴ったラブレターみたいなものじゃないか。気づいたときには遅かった。  あの子にだけ渡せば良かった、最初から。  金儲けに使うと決めた感情は、小杉にとって小説にはならなかった。  ちょうど三分の一の時間帯の図書室。小杉が頭を掻いたとき、まだあの子とは再会していなかった。  
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