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「え? 休みですか?」
それが、金曜日の二限目、現国の授業終わりに担当教員の川原に声をかけられたときの僕の第一声だった。
「ああ、今日は職員会議で顔出せそうにないし、週末に試合のあるラグビー部からも、フルコートで動きを確認しておきたいからグラウンドを使わせてほしいって頼まれててな」
川原は教卓の上で出席簿に教科書を重ねると、それらをひとまとめにして小脇に抱える。
「グラウンドの件は仕方がないですけど、それにしたって外周の走り込みや、筋トレとかできることは色々ありますよ?」
「まあな。でも、お前ら夏前に新チームになってから向こう、先月末の新人戦まで全く休みなしでやってきただろ? だから、ここらで一回休みを入れるにはいい機会だと思ってな」
にこりと笑う川原に、僕はどうにも「はあ」とだけ返事をする。肯定とも否定ともいえないそれに、川原はさらに笑みを深くする。にかっ、と覗く白い歯に、真っ黒に日焼けした肌とも相まって、四十代半ばという実年齢よりも随分と若く見える。
「で、どうする? キャプテンのお前が嫌だと言うなら考え直すんだが――」
「いやいや、僕も賛成です。練習したい気持ちは当然ありますけど、それにしたってグラウンドが使えないとあれば、いい機会かなと」
「よし、それじゃ決まりだな。一年には俺の方から連絡しておくから、お前は二年の部員たちに連絡回しておいてくれ」
わかりました。僕がそういうと、川原はもう一度笑顔を見せてから教室を出ていった。
その日最後の授業が終わり、教科書その他を鞄に詰めたところで、ふっと息をつく。
普段であればクラスメイトとの会話もそこそこに、つい今しがた教科書その他諸々を詰め込んだ鞄――野球用品一式の入った通称セカバン――を肩に、まっすぐグラウンド脇の部室棟へと向かうところなのだが、今日はその必要がない。このまま帰るのは当然として、帰りがけに駅前で買い物をしていく時間だってあるし、なんなら友人を誘って遊びに行ったってかまわない。
うちの野球部は県下においても強豪と呼ばれるようなものではないが、それでも僕を含めた野球部一同、日々の練習に真面目に取り組んでいるという自負はある。それでもやはり毎日の練習というのは大変だし、確実に取れる休みというのが正月の三が日くらいしかないとなれば、たまには休みの一つも欲しいと愚痴をこぼしたりすることもある。
だが今、唐突にそれが手に入ってみるとどうだろう? 存分に羽を伸ばしてよいはずなのに、どうにも妙にそわそわと落ち着かない。そうして、チラと教室の時計を見やって気が付いた。
気が付いてしまうとそれは、酷く単純なことだった。つまるところ、僕は休みの使い方を知らないのだ。
なんて馬鹿馬鹿しいんだ――そんな自分に一つため息をついた僕は、野球用具一式のせいでやたらと重いセカバンを左肩に担ぐと、軽く友人への挨拶を済まし、まっすぐ駐輪場へと向かうのだった。
「ただいま」
まだまだ明るい時間帯に自宅へと帰りついたとき、母は居間のテレビでドラマの再放送を観ているところだった。
「あら、あんた今日はどうしたのよ? いくら何でも帰ってくるの早過ぎない?」
「急に練習が休みになったんだよ、だからまっすぐ帰ってきた」
僕の答えを聞きつつも、母は明らかな驚きの表情を浮かべている。
「そうなの? 随分珍しいこともあるのね。でもあんた、こんなに早く帰ってきてもまだご飯できてないわよ?」
「今日は部活もなかったし、まだ全然腹減ってないから大丈夫だよ」
それだけ言うと居間を出て自分の部屋へと向かう。それから鞄を下ろし、制服から部屋着へと着替えるも、まだ夕方の五時前だ。特にすることも思い当たらないのでとりあえずベッドにごろんと寝転がるも、どうにも落ち着かない。目を閉じたところで眠気が襲ってくるわけでもなく、むしろ普段ならば練習の真っ最中の時間ということもあってか、体を動かしていない自分に、次第にむずむずしてくる。
やっぱり少し運動しておいた方がいいよな――そんな思いから、僕は体を起こす。確かに部活は休みになったが、何も自主練まで休めと言われたわけではないのだ。家にだって当然バットは置いてあるし、素振り用のマスコットバットだってある。室内で筋トレだってできるし、ランニングであればその道具すら必要ない。
よし、と思い立っては階段を下りていく。
「あら、どこか行くの?」
「ちょっとその辺走ってこようかと。飯、まだなんでしょ?」
再びの母にはそう答え、そのまま玄関へと向かってはランニング用の運動靴に履き替える。
「大体一時間くらいで戻ってくると思うから」
居間へと呼びかけ、玄関を出る。とりあえずは一時間と伝えたが、はてさてどんなコースで走ろうか? そんなことを考えつつも庭先でストレッチを始めたところで、その視界にはたと気が付く。すぐさま庭先から居間の窓ガラスをコンコンと叩き、母を呼ぶ。
「今度は何よ?」
がらりと開かれた先で、僕は訊ねる。
「今日ってさ、ジャックの散歩ってもう行った?」
ジャックと初めて会ったのは、僕が三歳の頃だったらしい。らしい、というのは、僕自身がまだ小さすぎて、初めて会った日のことを覚えていないからだ。だから、僕が思い出せる全ての記憶には、必ずジャックがいる。
ジャックはいわゆる雑種犬で、僕より五つ年上のいとこが、学校帰りに近所の公園に捨てられていたところを拾ってきたらしい。ただ、いとこの家ではすでに別な犬を飼っていて、さすがに二頭も飼うのは無理であり、かといって拾ってきた手前放り出すわけにもいかず、それで我が家にお鉢が回ってきたという経緯がある。
ジャックの名付け親は父だ。ジャックは今でこそ全身白とも茶色とも呼べないくすんだ毛色で、耳もぺたりとしてしまっているが、昔は耳もピンと立ち、体毛も艶のある金色に近くて、元は捨て犬だったとは思えないほどに凛々しかった。そんな姿に、父は第一印象でジャックの名をつけた。その後の予防接種に行った際に、実はメスであることが発覚するのだが、それでもジャックはジャックなのだ。
そんなジャックも、今年で推定十四歳。かつては庭中所狭しと走り回り、まるで小屋に入りたがらなかったものだが、今ではむしろ小屋から出ていることの方が珍しいくらいで、すっかり老犬となっている。
「散歩ならまだよ。というよりも、ここ最近は声をかけても全然小屋の外に出てこないのよ。覗いてもほとんど寝ているみたいで、ご飯の食べる量も随分少ないのよね」
ジャックももうお婆ちゃんだからね――そう言っては表情を曇らせる母が、その先に何を言わんとしているかは明らかだった。だが、わかってこそすれ、僕も母も声に出すことは決してない。なぜってそれは、きっと声に出した途端、想像から現実へと姿を変えてしまう類のものであるからだ。
「でもね」と母が笑う。「あんたが声を掛けたら、ジャックも散歩行く気になるかもしれないわね」
「わかった、それじゃちょっと声かけてみるよ」
それから僕は振り返ると、軒下の小屋の中で丸まる背中に声をかける。「ジャック、散歩いこうぜ」と。
耳が遠いせいか反応がなかった背中だが、近づいてもう一度「ジャック」と声をかけると、こんどこそ丸い――随分と痩せてしまった――背中がもぞもぞと動き、それからのっそりと顔を出すのだった。
俯き加減で出てきたジャックは僕を見やると眠たげにあくびをくれるも、それから首を差し出してくる。僕はその首輪につないだリードを散歩用のそれに付け替える。一瞬その表情に機嫌が悪いのかとも思ったが、こうした仕草を見る限り、どうやら散歩に行くのは嫌ではないらしい。
リードを付け替え終えると、それを教えるようにポンと背中を撫でる。以前ならば弾力のあったはずのそこにかつての姿はなく、むしろ明らかに骨のそれだとわかる硬さが手のひらに伝わってくる。そういえばリードを付け替える際の首輪も、随分と隙間ができてしまっていた。穴の位置はもう随分と昔から変えていないはずだから、つまりはそれだけ首が細くなったということだろう。
中学に上がったあたりから生活が部活中心になっていたこともあり、僕がジャックの散歩に行く機会はぐんと少なくなっていた。事実、今日の散歩だって、果たしていつ以来なのだか思い出せないくらいだ。
いつの間にこんなに痩せてしまっていたのか――病気の類はしていないはずだから、つまりは単純に加齢によるものなのだろう。思わずいたわるようにジャックの頭を撫でると、ジャックは目を閉じたままに僅かにうなって見せる。これは一見すると怒っているようであるが、その実喜んでいる声であり、そのことになんだか嬉しくなる。
パン、と膝を叩いては勢いよく立ち上がる。
「それじゃジャック、行こうか」
くいとリードを引くと、ゆっくりとではあるがジャックが立ち上がり、先に立って歩き出す。同じく僕も、そのすぐ後ろについて歩き出す。
家の門を出て数歩、ジャックの足が止まる。座り込みこそしないものの、どこか困ったような表情で僕を見上げてくる。
「どうしたジャック?」
ジャックに視線を返しながら首を傾げるも、返事はない。これはいったいどうしたものかと腕を組んだところで「ちょっとちょっと」と背後から声がかかる。見れば、母が足元にサンダルをひっかけて庭に出てきていた。
「どうしたの?」
「いやね、あんたには言ってなかったんだけど、ジャック、もう自分じゃそこ、降りられないのよ?」
「え?」
その言葉に思わずジャックを、そしてジャックが見つめる先を振り返る。それは、我が家の門から通りへと出るための、十段ほどの階段だった。
坂道の途中に立つ我が家には立地上階段は必須であり、僕が小さな頃なんかは、散歩に行く度にジャックに引っ張られてはそこを駆け下り、よく転びそうになったものだ。
「あんたと一緒ならもしかしたらと思ったんだけど」チラとジャックを窺がう。「やっぱり駄目だったみたいね」
そんな母の言葉の意を知ってか知らずか、ジャックもバツが悪そうに顔を背ける。
「ジャック、そんなに弱っていたんだ」
告げられた現実に、少なくないショックを受ける。だが、それがこうして目の前にある以上、受け止めないわけにもいかない。僕はジャックの横にしゃがみ込み、「ジャック」と名を呼んで頭を撫でてやる。
「なあジャック、俺はお前と散歩に行きたいんだけど、お前はどうなんだ? お前も行きたいって言ってくれるなら、俺は協力するぞ?」
問いかけに、ジャックはすぐには答えなかった。だが心惜しそうに階段の下の通りを見つめ、それから僕を見つめなおすと「くうん」と小さく鳴く。
「そうか、よし、わかったよ」
僕はそれを同意と判断する。
「わかったって、あんたどうする気?」
「どうするも何も、ジャックが行きたいって言うんだから付き合うまでさ」
母に答え、それからジャックにも一言「ちょっと我慢しろよ」と声をかけ、それから背中から両腕を回し、ぐいと抱っこする形で持ち上げてやる。そんな僕に母は何かを言いかけるが、それを飲み込んでから「気をつけなさいよ」とだけ笑いかける。僕は頷くと、ジャックを抱えて階段を下りていく。
通りに出たところでジャックを下ろし、もう一度、今度は優しく頭を撫でてやる。
「さあジャック、行こうか」
僕の呼びかけに、ジャックはゆっくりと歩きだす。
何度も通った道だった。
それこそジャックが家に来て、庭から外に出られるようになってからの十数年以上、ほとんど毎日歩いた道だ。
初めは親父と。途中からは僕が加わり、その先はほとんどの日を僕が一人で。そして、僕が忙しくなったこの数年は母と。
毎日変わらない道だってのにジャックはまるで文句を言うこともなく、それどころかいつだって楽しそうに歩いていた。
近所の犬を見かければ吠え掛かり、子供を見かければ走り寄り。
ひと頃には通りがかりのあちらこちらにマーキングをしたがったこともあったし、生け垣に花を見つければ抑えるリードも構わずに頭を突っ込んでいた。
のんびり歩いて三十分ほどの道のりなのに、ジャックの寄り道のせいで倍近く時間がかかることもあったし、それとは逆に僕を引っ張っては走り続け、十五分もかからず一回りしてしまったこともある。
そんなジャックが、とことこと歩いている。
決して走らず、犬を見かけても吠え掛からず、生け垣その他にやたらと鼻を擦り付けてはクンクンすることもない。ただただゆっくりと歩いていく。
電柱から電柱までの数十メートルをのんびりと歩き、時々立ち止まっては、今まで歩いたのと同じか、それ以上の間休憩する。手に持ったリードを引かれることもなければ、反対に僕が引くこともしない。ジャックが歩くに任せ、僕はその後ろをただ黙ってついて歩いていく。
照らす西日も随分と傾き、歩く僕らの影をその道に長く落としていく。それが眩しいのか、ジャックは少しだけ目線を落とし、それでも道を逸れることなく歩いていく。
僕は黙ってその背中を見つめていて、なぜだかたまらなく泣きそうになってしまう。
だって、そうだろ? しばらくぶりに一緒に散歩に出てみれば、その背中がいつの間にかこんなに小さくなってしまっていただなんて。
「なあ、ジャック?」
立ち止まったタイミングに声をかけると、ジャックは振り返っては僕を見上げ、ハアハアと舌を出す。
その顔に、続く疑問は声にできなかった。お前は今、幸せなのかと。
「いや、なんでもないよ。ありがとな、付き合ってくれて」
代わってそう声をかけると、ジャックは「ふうん」とばかりに首を巡らせ、しばらく休んではまたてくてくと歩き出す。僕もまたてくてくとそれに従い、途中からは後ろではなく、横に並んで歩いていく。
歩き出して、何分が経っただろう。時計がないので確認のしようがないのだが、すっかりと隠れてしまった西日と、点々と行く先を照らす道路脇の外灯の仕事ぶりからして、随分と時間が経っているのは間違いない。
ジャックの歩くペースは目に見えて遅くなっていた。それに、休憩の間隔は短く、反面その時間は長い。
「ほらジャック、もう少しだから頑張ろう? な?」
座り込んでいたジャックが「やれやれ」といった具合に歩き出す。それでも、ここまでくれば、家まであと少しだ。
そんなあと少しの地点からたっぷりと時間をかけて、僕たちはようやく我が家の前まで戻ってきた。見れば階段下の駐車場には親父の車が停めてあり、どうやら仕事から帰ってきているらしい。
「親父、今日は残業なしで帰ってこれたんだな」
若干の苦笑いで車を見つめていると、右手にクイっと引かれる感覚がある。
「あれ? て、おい、ジャック」
見れば、降りるときにはあんなにもためらっていたジャックが、階段を上り始めていた。その姿にかつての軽快さはなくて、一段目を上るのにすら両の前脚に力を込めて、それこそよじ登るという表現がしっくり来てしまうほどだ。
ジャックがなんとか一段目を上りきるのを待って、僕はしゃがみ込んでジャックと目を合わせる。
「ジャック、大丈夫なのか? 上まで運んでやってもいいんだぞ?」
そんな僕にも、ジャックは頭を振って――少なくとも僕にはそう見えた――次の二段目に足をかける。
何がそうさせるのか、ジャックは上るのをやめなかった。たった一段を上るのに驚くほどの時間をかけ、それでも確実に一段ずつ上っていくその背中に、僕は手を出すことができなかった。
随分と軽くなってしまったジャックを抱え上げるのは、驚くほどに簡単なことだ。なんなら、僕のセカバンよりも軽いかもしれない。そして、抱え上げればこの階段など、ほんの数秒で上れてしまうだろう。
それでも、ジャックの意思がそうであるならば、手を貸すべきではないのだろう。言葉を通わせることは叶わないけれど、それでも、その背中にはジャックの意地と、それ以上に誇りのようなものを感じ取れた。
それから数分、ついにジャックが上りきる。
そんなジャックを、僕は思わず抱きしめてしまう。ああジャック、さすがだよ。すごいよお前は、と。
「なんだよジャック、まだまだ大丈夫じゃないか」
そんな僕に、それまでずっと黙っていたジャックが「ワン」と返事をしてくれた。思えばそれは、ジャックが今日初めて発した声かもしれない。
「おい、今の声、もしかしてジャックか?」
唐突に僕らに声がかかる。親父だ。
「ああ親父、お帰り。でもどうしたの? わざわざ出てくるなんて」
「そりゃお前、ジャックがお前と一緒に散歩に行ったって聞いたから待ってたんだよ。それに、ジャックが中にまで聞こえる大きさで鳴いたのなんて久しぶりだからな」
ああ、そうだったのか。見ればジャックは、体力を使い果たしたのか門の前で丸くなっている。
「おかえりなさい、随分かかったのね」
「ただいま。まあジャックのペースに合わせて歩いたからね。でもほら、おかげでちょうど晩飯の時間だろ?」
親父に続いて母まで外に出てきた。散歩の出迎えにしてはいくら何でも大げさな気もするが、それだけ我が家にとってジャックとは愛された存在ということなのだろう。
「それより聞いてよ。今さ、この階段、ジャック一人で上り切ったんだぜ?」
「あら、そうなの? 最近じゃ全然だめだったのに……」
驚く母にはどうだとばかりに笑顔を見せつけてやる。
「そこはほら、やっぱり俺と一緒だからなんじゃない?」
よいしょとかがみこみ、改めてジャックの頭を撫でてやる。
「なあジャック、お前だってまだまだいけるんだよな。年寄扱いするなって、お前からも言ってやれよ」
茶化すように声をかけ、首を抱くようにして顎を撫でてやる。ジャックは昔からこれが大のお気に入りで、よくできたときなんかにこうして褒めてやると、気持ちよさそうに目を細めては喜んでくれるのだ。
「ほら、ジャック、もう一回鳴いてやれよ」
なのに今、ジャックの反応が鈍い。やはり今の階段上りで疲れ切ってしまったのだろうか?
「ジャック? どうした? この後晩御飯だぞ?」
顔を覗き込むも、さっきから目を閉じたままだ。
「なあ、ジャック?」
顎を撫でる手を止める。と同時に、ジャックも止まる。
違う、止まったんじゃない。撫でている最中も、動いていなかったのではないか?
「ジャック? おいジャック? ジャック!」
ぐいと顔を挟み込み、鼻と鼻を突き合わせる。
そんな馬鹿な、嘘だろ? 目を開けろよ、起きろよ、ジャック!
手を離すと、ジャックの頭は重力に引かれるままに下がっていく。丸まった腹に目をやると、本来動いているはずのそこは、ピクリとも動いていない。
「なんだよおい、さっきまで元気だったじゃないか」
すがるように親父を見上げると、親父もジャックの傍らにかがみこみ、その腹にそっと手を当てる。それから目を閉じ、しばらく待ったかと思うやゆっくりと首を振り、それからポンポンと二度、僕の背を叩く。
そんな、嘘だ。
それでもしかし、ジャックは動かない。後ろでは母が両手で口元を多い、その両目からはすでに涙がこぼれている。
ああ、そうか。
認めたくないし、嘘であってほしいと願う。
だが、目の前にあるそれは、どうしようもない現実なのだ。
たった今、ジャックは逝った。
翌日の午前中、全体でのランニングとアップ、キャッチボールを終え、さあこれからバッティング練習をというところで、顧問の川原から声をかけられる。
「ようキャプテン、どうやら昨日は十分に休めたみたいだな?」
「はい、昨日はありがとうございました」
僕がぺこりと礼をすると、なぜだか川原はククッと目を細めて笑う。
「それに、なんだかいいことでもあったみたいだな?」
「え? なんでですか?」
「なんでってお前」目の前を通り過ぎ、それからベンチに腰を下ろしては帽子を被りなおす。「動きが全然違うからだよ。お前、今日はえらく気合入ってるもんな」
「ああ」思わず頷く。「確かに、そうかもしれませんね」
僕が笑顔を見せると、それを受けた川原もニヤリと笑う。
「よし、その意気だ。それじゃ始めるぞ、マシン出してフリーバッティングだ」
「はい、わかりました」
川原の指示を受けて、僕はグラウンドに向き直り、大きく息を吸い込む。それから散らばる部員達に向けて、グラウンドの端まで行き渡るほどの音量で指示を出す。
「フリーバッティングー!」
僕の指示から一呼吸を置いて、部員達から一斉に返事が聞こえる。それから再びベンチの川原に「どうですか?」とばかりに振り返ると、川原もまた満足げに頷いて見せる。
僕はグラブをベンチに置くと、両手にバッティンググローブをはめる。それからバットを手に軽く素振りをすると、その音は心なしか普段よりも鋭い気がする。
川原は言った。今日は気合が入っているな、と。確かにその通りではあるのだが、それは決して、いいことがあったからではない。
昨日、ジャックが行ってしまった後、呟くように親父が言った。
「ジャックはさ、きっと嬉しかったと思うんだよ。久しぶりにお前と散歩に行けてさ。それに、この家に来た時からずっと一緒で、同じように成長してきたお前がこんなにも立派に育っているのを見てな」
「そんな、俺は別に立派なんかじゃ――」
気づけば鼻声になってしまっている僕の言葉を遮り、被せるように親父が続ける。
「だからこそ、お前には弱っている自分を見せたくなかったとも思うんだよ。そして事実、ジャックは自分の人生のそれこそ最後の瞬間に、今持てる最大限の力をお前に示して見せた」
親父が片膝をつき、そっとジャックの頭に手を添える。
「最高に凛々しいやつだよ、お前は」
さすがの僕もこの時だけは、こみ上げるものを堪えることができなかった。そうして滲んでしまった視界の中でも、僕は考える。これからの自分が、どうあるべきかを。
「ボールいきまーす!」
バッティングマシン脇に立つ後輩が声を出し、次いでマシンからボールが放たれる。テイクバックをとったグリップに力を込めつつ腰を捻ると、振りぬかれたバットが小気味よい音を放ちつつ、糸を引くようなライナー性の打球が右中間に飛んでいく。
「なんだよお前、今日絶好調じゃねーか」
ネクストで控える友人には「そんなことねーよ」と嘯きつつも、次に備えて再び構える。オープン気味に構えたスタンスでリズムをとる様に足を動かし、次のスイングに向けたタイミングを計っていく。
死後の世界なんてものが存在するのかなんて、僕にはわからないし、そもそもその前提としての魂なるものがあるのかすらも判然としていない。
それでもしかし、ジャックはきっと、僕のそばにいて、見てくれているのだろうと思えるのだ。まだ小さな子供だった僕を散歩中に引っ張りまわし、その勢いで転ばせては泣かせてしまった時のように。申し訳なさそうにそばに立っては、身をかがめ、僕の顔にそのふかふかの毛をこすりつけては慰めてくれるのだ。
ジャックにとって、彼女にとって、もしかしたら僕は、息子のように思われていたのかもしれない。もちろんそれは僕の自分勝手な願望に他ならないのだが、仮にそうだとして、彼女はその息子に、凛々しくも誇らしい最期を見せてくれた。
なればこそ、僕は答えなければいけない。今の僕にできうる、すべてをもって。
「ボールいきまーす!」
振りぬかれたバットに、そのボールは天を衝くように高々と伸びていった。
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