足りない珈琲の匂い(花梨と志真③)

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 大好きな香りは、珈琲の香り。  それは、彼の匂いという気がするからだろうか。  志真が働く喫茶店で、花梨はその日も珈琲を飲んでいた。一番安心する瞬間でもある。どんなに仕事で気が張っていても、嫌なことがあっても、心を緩めることが出来る瞬間。  それが、この店のオリジナルのレッサーパンダが描かれたマグカップに、珈琲が注がれて行って、目の前に差し出される瞬間。 「はい、どうぞ」  カウンターに座っていた花梨の前に、志真がカップを出して来た。一口飲んで息をつく。そろそろ桜が満開も過ぎたかという春の今は、熱い珈琲を美味しくいただけるが、もう一か月もしないくらいで、氷が浮かぶ珈琲が命の水のように感じられる季節が来る。  寒くも暑くもなくいい季節、どこかへ行きませんかね。  花梨が志真にそう言おうとした時だった。それを止めるように、先に志真の口から発せられた。 「そういえば、来週からしばらく俺はお休みするから。まあ、この店は、誰が淹れても珈琲はちゃんと美味しいから大丈夫だよ」  そんな心配は全くしていないのだが。  そうか、一人でどこかへ行ってしまうのか。それが、少し残念ではあったけれど。こくり、と、花梨は珈琲を飲み込んだ。 「しばらくって、どれくらい?」 「二週間くらいかな」 「旅行でも行くの?」 「うん。ちょっと、ブラジルにね」  しかも海外か。羨ましく思いつつも、しかし、あまりにも唐突な話で、疑問符が浮かんできてしまう。 「何で?」 「別に……何でも何もないけど……ただなんとなく行きたくなって」 「へー……。もしかして、珈琲の産地に行くとか」 「それもいいね」 「いいねぇ、楽しそう」  ゴールデンウイークは忙しくなるだろうということで、ちょうどその前まで休みを取って行くことになるそうで。  確かに、このお店の誰が淹れても、美味しい珈琲は飲めるかもしれない。でも、そういうことじゃないんだけどなぁ、というのも、少しはわかってほしいところではある。  子供じゃないので、敢えて口には出さないが。  こういうことだって、普通にあることだ。  だから、いつも通りの朝は来る。 寝ぼけ眼で、ふっと、花梨は壁にかかっているカレンダーに目をやった。 「二週間か……」  志真がブラジルへ行ってから今日で十日。あともうちょっとだし、二週間くらい、忙しくしていれば寂しく思う暇もないくらいあっという間だろうと思っていた。実際、そこまで不在を意識せずこの十日間は過ぎて行った。  しかし、ただ、どうしようもなく、そこにはないはずの志真の感触が過って行く瞬間がある。  コーヒーの匂い。  自分で淹れてみたものの、ゆらゆらと立つ湯気を思いっきり吸いこんで、花梨は思わず首を傾げた。 「うーん……なんか違う」  志真の淹れる珈琲とは、まるで違う。あんなに深く、鼻孔がくすぐられる感じがまるでない。  一口飲んでみて、味も雑味が混じっていて、まるで違う。澄んだ青い海と、濁った海くらい違う。  そりゃそうだ。珈琲を淹れることを生業にしている人と同じように香りと味を出すことなど、できるわけがない。    足りない。  ああ、会いたいな。  はっきりと、そんな言葉が頭に浮かんで来てしまって、心臓の奥の方が、じわっと、妙な動きをした気がした。  一度意識してしまうと、なんだか子供みたいに泣き出しそうになってしまう。馬鹿みたいだ。  志真のとは違う珈琲の香りをもう一度嗅いで、余計に何かが足りない思いが膨らんでしまった気がした。  いけない。こんな感傷的な気持ちは、たいしておいしくない珈琲で流して、仕事へ行こう。  顔を洗って化粧をして着替えて。靴を履いて家を出た。  こうして実際に、志真がいなくても、花梨の時間は強制的にでも進んで行くし、回っている。志真の時間だって、花梨がいなくてもそうなのだろう。今だって、ブラジルでそれなりに楽しくやっているに違いない。  歌のフレーズにでも出てきそうな、あなたがいなきゃ世界の終わり、なんて、そんなことが、本当はない。誰がいてもいなくても、世界は、人生は、進む。  仕事を終えて一日が通り過ぎて行った時間に、そんなふうなからくりに気づいてしまったりして、ぽかりと、そこに穴が空いたような気持ちにもなる。  それはきっと、必要かどうかじゃない、足りない、珈琲の香りのせい。  土曜日。休日。  特に目的もなかったけれど、家でじっとしていたくなかったので、何処へ行くとも決めず、気の向くままに歩いていた、昼下がり。 ドーナッツ店の前を通り過ぎた時に、そういえば、いつだったか、新しい店を見つけて、二人で半分ずついろんな味を食べたことがあったっけ、なんて、思い出してしまう。  ああ、あの時はそうだ。美味しいものを食べている時に、やっぱり、志真もこういうの好きだろうな、とか、知らず知らずのうちに、頭を過って行って、あのドーナッツを買って行ったんだった。    そうだ。今日は、志真が帰って来る日だった。  花梨は鞄からスマートフォンを取り出すと、志真にメッセージを送る。日本に着いてから見てくれればいいが。  返事が来ても来なくてもいい。  メッセージを送信し終えると、ドーナッツ店のドアを開けた。甘い香りが漂う、カラフルなドーナッツの並んだ店の中で、やっぱりあの時と同じように、志真はどれが好きか、と、真剣に考えてしまう。  また二人で食べよう。とびっきり美味しい珈琲を淹れてくれたまえ。  ドーナッツを買って店を出るころに、志真からの返事は来た。あと一時間ほどで着くからと。  確かに、誰がいてもいなくても、世界も、人生も回る。だけど、からからと音を立てて虚しく回るだけかもしれない。  満たしてくれる、君の香りがなければ。  部屋のドアが開いて、約半月ぶりに志真の姿を見ると、花梨は知らずに笑みがこぼれて来た。志真も柔らかく笑っている。 「おかえり」 「ただいま」  なんてことはないその言葉が、とても大切なものに思える。  花梨は手を伸ばして、むにっ、と、志真の頬をつまんだ。当然、志真の顔は笑顔から困ったような表情に変わる。  それすら、愛しい。  あなたがいると、とくん、とくん、と、時間が脈打って回る。だからね、いてほしいんだ。
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