【狂気が生まれるまで】

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【狂気が生まれるまで】

【高橋聡子と高橋和哉の出会い】 それは高橋聡子が35歳の時だった。 友達が主催した飲み会で聡子は和哉と出会った。 聡子は漁師町の田舎で育ち、地元の看護専門学校を卒業した。 就職は県の中央にある白鳥市の中堅病院に就職していた。 新人から生え抜きで働き続けた聡子は、頭の回転の速さ、頼もしさ、腕っぷしの良さで同僚や患者からの信頼を集めていた。 看護師としては申し分ない経験値を積み上げていた。 しかし、男運にはとことん恵まれなかった。 看護師という看板があると、男と知り合う機会はたくさんあった。 しかし中々いい男とは巡り合えない。いつも訳あり男ばかりだった。 焼肉を食べに行けば財布を忘れる男、欲しい物をねだられ誕生日が年に2回ある男、ヒモ要素がたっぷりの男ばかりであった。 甘える男を囲いたい同僚もいたが、聡子はそうではなかった。 ヒモ要素が見え始めると途端に冷めてしまうのだ。 だから30歳を過ぎたあたりから、結婚を諦めていた。 ときどき飲み会に参加するのは、毎月寄せてくる性欲のはけ口になる男を探すため。 性欲は女にもしっかりある。 出産期限が近づく女を焦らすように、ホルモンは性欲を刺激してくる。 今日もただその欲求を満たすだけの獲物をハントしに来ただけ。 聡子は目の前に並ぶ男を見てタバコをふかし、そう割り切っていた。 同じくいい歳をして独身の友達が用意した男たちは、世間一般でいう上級ではない。 聡子たち同様、上級には相手にされず結婚レースには乗れなかった者たちだ。 しかし今日の男たちは聡子の心をくすぐった。 地元の同じ高校を卒業し、高卒で就職した仲間だった。 真面目にしっかりと働き、社会の地盤を支える者たちだ。 擦れることはなく、その中で楽しく生きているところが実に清々しくて聡子の心をくすぐったのだ。 その中に高橋和也がいた。 背は聡子と同じで、(かすみ)でも食って生きているのかと思うほど細身だった。 聡子は自分の性の処理役には役不足と却下していたが、和哉のほうから聡子に声をかけてきたのだ。 和哉はひどい遠視で分厚い眼鏡をかけていた。 実際より大きな目で聡子を覗き込んだ。 「君のその大きい口で笑う姿が好きだな。向日葵(ひまわり)がパッ咲いたみたいで素敵だね」 聡子はそう言われて、こいつは詐欺師かと疑った。 聡子は自分でも自覚しているが、分類したら不美人に入るだろう。 ややタレ気味の太い眉に一重の目は両方の大きさが違う。 厚い下唇は愛情の深さやセクシーさを表すというが、聡子が笑うと不自然に唇が突き出て受け口に見えた。 癖毛の髪は手入れが面倒で常に一本にまとめているだけ。 酒が入ると大声で笑うか、タバコをふかしているだけ。 和哉はそんな女を向日葵と表現したのだ。 そして和哉からデートを申し込まれた。 しかも、3回デートを重ねても肉体関係はなかった。 「和哉って勃起不全なの? 私と会う目的って何」 「何って、聡ちゃんと一緒にいると楽しいんだよ。だから簡単に手をだしちゃダメだろう」 後にも先にも言われることのない言葉だった。 何よりもかっこいい言葉だと思った。 きっとこれが愛されている、ということなのだろう。 未体験なことだったけど、和哉と一緒にいるとその実感があった。 和哉と結婚するにはそう時間がかからないと思った。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 【高橋聡子 36歳】 結婚1年目。2人に子供はいなかった。 聡子が独身時代に買った2LDKのマンションに和哉が引っ越してきた。 和哉は大手スーパーチェーン店の鮮魚部で働いていた。 拘束時間は長時間だしサービス残業は当たり前、休みは月6回だけ。 でも、和哉の口から仕事の文句を聞いたことが無かった。 今ではこんなところも聡子は誇りにすら思っていた。 今日は久々の2人一緒の休日。 和哉が目利きした魚を捌いてくれている。 虚弱ではあるが魚を捌く右手の前腕部だけは、やけに逞しかった。 「新鮮なイサキって白身で身が引き締まって、コリっとした触感なんだよ。 これが最高に美味いんだよ」 「前も食べたね。美味かったね」 「聡ちゃん、夜勤で疲れてるから美味しいもの食べて勢力つけないとね」 小さなダイニングテーブルで食べた。 2人が休みの日だけ生ビールを(たしな)む。 それが2人の身の丈に合った贅沢だった。 「聡ちゃんって子供好き?」 「え、別にどっちでもないかな」 「そっか、実は俺さ……子供が欲しいだ」 聡子はドキッとした。 子供を欲しいとは思わなかったけど、避妊をしてないのに妊娠しないことを不思議に思っていたからだ。 喫煙者で生活リズムが狂う交代勤務をこなし、食生活にも気を使ってこなかった。 こんな自分だから不妊傾向があると思っていた。 「……そう」 「俺一人で家族を支える甲斐性はないから諦めていた。でも結婚して聡ちゃんとなら子供を持てるんじゃないかって、最近、欲が出てきた」 和哉は青白い頬を赤らめて俯いて言った。 自分との子供が欲しいと言われて、うれしくない妻などいない。 聡子自身も子供おろか結婚すら諦めていた。 そこに結婚までしてくれて、自分の子供を産んでほしいと懇願される。 聡子は初めて自分が産まれてきた意味を感じた。 和哉の願いを叶えてあげたいと思った。 「ありがとう。そう思ってくれてるってだけで、あたしは幸せだよ。 だから和哉の願い、叶えたい」 聡子は大きな口で笑った。 和哉の顔が明るくなった。 「俺の人生、聡ちゃんに出会ってベクトルが上昇し始めたよ。こんなに幸せでいいのかな」 和哉は嬉しそうに目を細めて、耳の後ろを掻いた。 「そしたら治療も開始しないとね。お金かかるかもよ」 「俺たち贅沢なんてしてないし、身の丈に合った出来るだけのことやってみよう」 「うん」 和哉と聡子はテーブル越しに手を握った。 骨張っているけど、温かい和哉の手。 今まで聡子は沢山の人を守ってきた。 今は自分が1人の女として見られ守られている。 幸せでいっぱいだった。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 【聡子の妊娠】 聡子が妊娠するまで2年かかった。 夜勤をこなす聡子と和哉では、月に数日しかない妊娠しやすい日にセックスするのが困難だった。 タイミング法では効果がないと見切ると、すぐにステップを上げて治療をしていった。 人工受精でもなかなか成果が出ず、体外受精でやっと授かることができた。 それまでにかかった費用や聡子の精神、肉体的苦痛を考えると、お腹の子供は2人の宝となっていた。 「私、高齢出産だからね。大事に育てないと」 「今は30代後半の出産なんて当たり前だよ。大丈夫、大丈夫」 和哉はそう言うと、聡子のまだ大きくないお腹に手を添えた。 「……ひまわり。そうだ、胎児ネームは向日葵(ひまわり)がいいね!」 和哉は指紋が付いた分厚い眼鏡で聡子を覗き込み、そう提案した。 「聡ちゃんみたいに、笑っただけで周りを明るくするような子になりますように」 「……いい名前だね」 聡子は涙が出るほど嬉しかった。 聡子の妊娠経過は順調であった。 それがゆえに、仕事では他のスタッフ同様に夜勤をこなしていた。 聡子が仕事を辞めると、高橋家の経済は一気に困窮する。 そのため聡子が産休に入るまでは頑張って働くしかなかった。 スーパーの業務も忙しい中、和哉は食事や洗濯、掃除、全てを引き受けてくれた。 「世間のお母さんは仕事をこなして子育てもしているんだぜ。だったら俺にだって出来るさ」 ベルトをしないとズボンもストンと落ちるほどの細い体のどこに、そんなパワーが潜んでいるのかと驚かされる。 そして聡子も和哉を一生大事にしようと誓うのだった。 「和哉がおじぃちゃんになったら、私は喜んでオムツを交換してやらるからね」 「ははは、聡ちゃんがいれば俺の老後は安泰だなあ」 私たちは幸せの絶頂にいた。 ーーーーーーーーーーーーー 【妊娠33週目の悲劇】 もう少しで聡子が産休に入るという頃だった。 この日は聡子が休みで、和哉はスーパーの棚卸で夜通し作業の日だった。 夕刻、産休に入ったらベビーグッツを揃えようと雑誌を眺めていた。 その最中、下腹部に違和感を覚えて聡子はトイレに向かった。 尿意はないが水分で下着が濡れていた。 お腹も大きくなってきて、膀胱が圧迫され漏れ出したのだと思った。 大きめのパットを敷き、雑誌の続きを読もうと部屋に戻った。 22時。 風呂に入ろうと下着を脱ぐとパットがズシリと水分を吸っていた。 「何これ」 こんなに尿が漏れるだろうか。思わず鼻を近づけにおいを確認する。 尿の匂いはしなかった。 一瞬、羊水ではという不安がよぎったが、順調な妊娠経過という事実にかき消された。 23時。 寝る前にトイレでパットを確認した。 やはり水分を吸っていた。 同時にあることに気が付いた。 そういえば胎動を感じない。 「ーー羊水だっ」 ここで突然、聡子の頭にピタッと当てはまって来た。 これは羊水だと確信したからだ。 そうなると急に不安になり柄にもなくたじろいだ。 「和哉っ、和哉に連絡しなくちゃっ」 スマホにかけるが和哉は出なかった。 和哉のことだ作業に夢中になっているに違いない。 スーパーの事務所へかけ直した。 大きな売り場だから、和哉が電話口に出るまで時間が永遠に感じた。 「聡ちゃん? どうしたの」 「私、破水しているかもしれない。どうしよう和哉っ」 和哉の声を聞いただけで、聡子は涙が出てきてしまった。 いつの間には夫婦のパワーバランスが変わって、聡子は和哉を頼りにしていた。 「落ち着いて、大丈夫だよ。聡ちゃん。  今、破水したらどんな危険があるのか教えて」 「向日葵に感染の危険がある。あと、羊水が減ったらお腹の中で動けなくなって、手足が固まっちゃう。呼吸もしずらくなるっ」 電話の向こうからゴクリと生唾を飲む音が聞こえた。 「僕が今から帰っても時間がかかりすぎる。聡ちゃん、救急車、呼べるね?」 冷静になれ、と催眠術をかけるような安心する低い声だった。 「……うん、できる」 「病院が決まったら、連絡して。僕も今から帰るからっ」 「うんっ、うんっ」 聡子は目をギュウっと瞑り、電話を握りしめ頷いた。 「僕たちの向日葵は君に似てきっと強い身体(からだ)と心を持っている。 だから、きっと大丈夫だよ」 和哉は聡子に、そして自分自身にそう言い聞かせた。 11時30分  聡子は救急車要請の電話をかけた。 0時50分  白鳥市民病院からも断られた。 救急車の中で横になっている聡子の耳にも聞こえた。 (そんな、市民病院なら受け入れてもらえると思っていたのに!) この地域ではむしろ白鳥市民病院しかないと聡子は思っていたからだ。 刻一刻と時間が過ぎていく。 それが向日葵を大きな暗い穴の淵に追いやっている気がしてならなかった。 その時、和哉の声が聞こえた。 「まだ搬送先が決まらないんですかっ!」 汗まみれで必死に帰ってきてくれたのが分かった。 「和哉っ、早くしないと向日葵がっ、向日葵がっ」 胎児ネームを叫ぶ聡子を救急隊が不思議な顔をして見ていた。 「隊員さんが探してくれているから、もう少し待ってみよう」 それから近隣のいくつかの産婦人科のある病院に交渉したが駄目だった。 時刻はすでに2時になろうとしていた。 「かかりつけ病院に行こう」 和哉が決意して聡子に言った。 産後しばらくは実家で静養の予定だったので、掛かりつけは聡子の地元の病院にしたのだ。ここから1時間ちょっとかかる。 「そうですね、この状況ならそのほうが早いかもしれませんね」 隊員も申し訳ないという表情だった。 和哉は病院まで車を飛ばした。 それでもかかりつけ病院で診察を受けたのは4時前になっていた。 救急要請してから4時間以上が経過していた。 一通りの検査を終えて、医師が言った。 「残念です。心音が確認できませんでした」 つまり、死産ーーーーーー 聡子は声を出すことが出来ずに顔を上げた。 気まずそうに医師は視線をずらした。 「高橋さんは破水をしていました。破水した位置が大変悪かったと思われます。羊水がほぼ残っていません」 細かな説明は頭に入ってこなかった。 次に聡子の耳に聞こえたのはこの言葉だった。 「出産してもらいますね」 「……え?……」 だからという顔で医師は説明する。 「33週ですから胎児もそれなりの大きさになっています。強制的に陣痛を起こして出産する方法をとります」 聡子は頭が真っ白のまま、なされるがままになった。 点滴が挿入され陣痛促進剤を投与された。 その間も和哉は手を重ね握ってくれていた。 徐々に陣痛が始まった。 児を排出しようと子宮の筋肉が収縮すると、耐え難い痛みが聡子を襲う。 まるで腰骨を破壊されるような激痛が波に乗って何度もやってくる。 可愛い我が子に出会うためなら、母親というのは耐えることができるのだろう。 でも、私はーーーーーー 「頭が見えてるから、もう少し。頑張って」 聡子はまるで元気な赤ちゃんを出産している気分になって来た。 産み落としたら産声を上げるのではないか、そんな期待まで出てきた。 聡子は体の中で大きなものがギュルっと回転し滑るように娩出されたのが分かった。 産まれたっーーーー私たちの向日葵(ひまわり)っ 聡子はすぐに頭を起こし、自分の股の間を覗いた。 そして言葉を失った。 向日葵の皮膚は生命維持活動を放棄した色に染まり、元気よく屈曲するはずの四肢がだらりんと下がっていた。 気が遠くなるのを覚えて聡子は頭を戻した。 看護師が入ってきた。 「旦那さんが抱っこしたいそうです」 「……そう、じゃあ、入ってもらって」 助産師は向日葵に付着している胎脂を丁寧にふき取ってから、おくるみに包んでくれた。 ガウンを纏った顔面蒼白の和哉が入って来た。 和哉は助産師から向日葵を受け取った。 震える手でしっかりとおくるみに包まれた向日葵を抱きかかえた。 和哉は涙を流しながら向日葵の顔を見ている。 なんとも言えない慈しむ目。 和哉は自分の頬に向日葵の頬をくっつけた。 「……向日葵、あったかいなあ……」 この人の願いを叶えたかった。 向日葵を元気に産んであげたかった。 すべて叶えることができなった。 それから聡子は出血による貧血で目の前が砂嵐になった。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 【失意から狂気へ】 それからが私たちの地獄だった。 夜、和哉が悪夢にうなさるのだ。 びっしょりと寝汗をかいて、起こすと目をひん剥いて飛び上がる。 でも、本人は何の夢だったか覚えていないという。 聡子にはわかっていた。 自分もあれから向日葵の最後の夢をみるのだ。 そのせいで眠ることか苦しくなった。 そのあたりから睡眠剤なしでは眠ることができなくなった。 和哉も日に日に顔色が悪くなっていった。 「和哉、今月お休み3日間だけだよ。それじゃ和哉の体が壊れちゃうよ」 「先月辞めた人の補充がまだないんだ。仕方いよ」 聡子は笑顔が消えた和哉を心配した。 「大丈夫だよ」 と和哉は優しく答えるだけだった。 聡子もどうしたらよいのか、時間が経過し私たちの心が浄化するのを待つしかないと思っていた。 そろそろ夏も終わるころだった。 聡子が出勤し白衣に着替えている時だった。 仕事前に結婚指輪をポーチにしまった。 看護処置の中には排泄物が付着することもある。 聡子は和哉からもらった指輪を汚さないように毎回付け外しをしていた。 その時、指の間から指輪からするりと落ちた。 コーン、コーンと跳ねて壁にぶつかり倒れた。 聡子はすぐに動けずそれを見ていた。 その時、聡子のスマホが鳴った。 「高橋さんの奥さん? 和哉さんが倒れたんだっ! 今、救急車で白鳥市民病院に向かったから至急行ってあげて!」 なぜだか、どんな容態か聞かなかった。 でも、一秒でも早く和哉に会いに行かないといけないと思った。 聡子は救急外来の窓口に着いた。 「高橋っ、和哉のっ妻です」 案内する人を押しのけるように聡子は和哉のもとに走った。 目に飛び込んできた和哉の姿に心臓が止まりそうだった。 気道確保するためにアンビュ―バッグを口元にを当てられ、月岡が懸命に心臓マッサージをしていた。 月岡に胸部を押されるたびに、和哉の白く細い体が沈み手足が浮き上がるようだった。 それが何を意味しているのか、看護師である聡子にはわかった。 和哉の心臓が復活しない。息を吹き返さない。 近づくと、月岡の甲の皮膚が擦り剝けていた。 「……ありがとう、もういいです……」 その言葉を合図に月岡が手を止めた。 聡子は和哉の胸に顔をうずめ泣き崩れた。 和哉の死因は虚血性心疾患だった。 もともとの虚弱体質に加え、長時間労働や睡眠不足による負荷が加わり過労死へと繋がった。 手続きを終え和哉の親戚を待っている間、聡子は外来のソファーに座っていた。 魂を抜き取られ巨大な人形が置かれているかのようだった。 その異様な雰囲気を避けるように、聡子の傍には誰も座ってこなかった。 もう、私には何もない 向日葵も和哉も逝ってしまった 私も連れて行ってもらおう 思考が停止し涙すら流れては来なかった。 人形だった聡子の耳に、ある会話が入ってきた。 「あのポスター見てよ。看護師募集中ですって。  コロナ指定病院になってから看護師がドンドン辞めてるらしいわよ」 聡子は壁に貼られた急募ポスターに目をやった。 和哉を担当した月岡という医師の対応は完璧だった。 そんな立派な医師がいる病院なのに、なぜあの日の私の搬送は拒否されたのだろうか。 あの時、この病院で受け入れてもらえていたら向日葵は助かった。 そして和哉も死ぬことはなかった。 理由だけでも知りたい。 死ぬのはその後でいい。 聡子の目に少しずつ鈍い光が甦ってきた。
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