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その後 7月
梅雨の湿度はそのままに気温がグングンと上がり、夏らしい季節となった。
灰色からアクアブルーの空へと変わり、夏の風物詩でもある積乱雲が遠くの空に顔を出していた。
優里は精神科病棟の看護師として再出発をしていた。
あの事件後、優里は警察の事情聴取を受けた。
そしてしばらくの間、療養休養をもらっていた。
白鳥市民病院は医師や患者殺しの看護師がいた悪名高き病院として一躍有名になってしまった。
優里が休みをもらえたのは、マスコミの取材攻撃から逃れるためでもあった。
この病棟に異動し、2週間が経とうとしていた。
10時。
真夏らしい日差しに照らされ、とても日向では過ごせなかった。
優里は患者と一緒に中庭のベンチで腰を掛けていた。
「丸山さん、お華の先生だったんですよね。これなんの花かわかります?」
優里は紫色の花が描かれたスケッチブックを初老の女性患者に見せた。
「……、菖蒲」
「さすが丸山さんですね。カキツバタとアヤメとの違いが判るんですね」
「……根元……黄色い」
「見分け方は花弁の根元なんですね」
優里が再びペンをとって描こうとしたが、
「……私は、皇族の血筋だから……」
内服薬の影響で口どもってしまい後半はよく聞き取れない。
丸山さんは皇族妄想とうつ病を抱えていた。
皇居で行われる新年の一般参賀に、毎年足を運ぶほどの皇室好きだったらしい。
鬱を発症し同時に皇室妄想が激しくなってきた。
華道の先生としても活躍した丸山に、そのころの情熱を思い出してほしいと、優里はスケッチをしては丸山に見せていた。
今日もこうして季節の花を描いたが、丸山はすぐに自分の世界へと戻ってしまった。
実際に触れさせてみようかと優里は中庭の花を探してみる。
「丸山さん、作業療法ですってよ」
優里の背後から、優しくおっとりした、なつかしい声がした。
切なさで優里の胸が跳ねた。
振り返るとそこには白衣を着た藤乃が立っていた。
「久しぶりね、坂井さん」
「主任っ」
優里はまっすぐに藤乃に抱き着いた。
あの事件から初めて藤乃と顔を合わせたのだ。
丸山さんを作業療法室へと送り、優里は藤乃とベンチに座った。
「主任さん、体の具合はいかがですか」
「すっかり元通り。肩の刺し傷もね、血管と神経を外して見事だって褒められたわ」
藤乃は肩をグルっと回して見せた。
「まさかあの穴に発泡スチロールが積まれていたなんで幸運でしたね」
2階の昇降機の穴から落とされた藤乃は軽傷で済んでいた。
「うふふ。昇降機が壊れて、その扉も錆付いて撤去されたでしょ。
開いた穴は突貫でべニア板でガードしたけど、万が一、に備えて緩衝材を詰め込んでくれていたのよ。おかげで命拾い」
「さすが浜本師長さん……じゃなくて浜本副看護部長さん!」
優里は思い出し人さび指を立てた。
「長谷川副看護部長が突然辞めちゃって、急遽昇格したんですよね。
もう少しで定年退職だったのに、なんで辞めたんですかね、長谷川さん」
優里が不思議そうに頭を傾げた。
「でも、引き留める人もいなかったかもね」
2人は顔を見合わせて、クスリと笑い合った。
「高橋さんのその後の情報って聞いてますか」
誰にも聞けない、しかし気になっていたことを藤乃に聞いた。
あの後一命を取り留めた高橋は順調に回復していった。
身柄を病院から警察へど引き渡されたそうだ。
憶測が憶測を呼び、高橋聡子はメディアにたそうな悪女と仕立て挙げられていた。
「高橋さんに同情する気はないわ。
でも……あの時もし受け入れてあげていればと考えるとね……」
藤乃は遠い目で空を見上げた。
「救急搬送は運もあると思います。昔、父が手首を複雑骨折したんです。
運ばれた病院の当直医が、たまたま手外科の整形外科医でした。だから父は後遺症が残らなかった。運がよかったんです」
2人の間に無言と初夏の風が吹き抜けた。
その風に乗ってナミアゲハが中庭に舞い込んできた。
季節を反映してアゲハの羽が黒々と濃くなっていた。
無力とは違う、この世には如何ともし難いことがたくさんあるのだ。
今の2人にはそう悟ることしかできなかった。
藤乃は優里が持っているスケッチブックに目をやった。
「綺麗ね。坂井さんが書いたの?」
「ええ、まあ」
優里は照れながら俯いた。そして、
「絵を書くことが……私の趣味なんです」
吹っ切れたように優里は笑顔で顔を上げた。
「そう。坂井さんは精神科病棟にはもう慣れた?
看護処置も少ないし物足りなんじゃないの」
優里は頭を振った。
「ここでは患者さんを理解しないと看護ができないんです。
どういう環境で生まれて育ってきたのか。患者さんのバックグランドを理解して初めて、患者が抱える苦悩がわかるんです」
優里はまっすぐ前を見据えて自信をもって話す。
「救急外来のときは検査データ、モニターの数字、患者の表面的なことしか見れていませんでした。だから看護って何かわからなかったんです」
優里は膝を藤乃の方へ回した。
そして藤乃と目を合わせた。
「どうやら私、やっと看護師として目覚めたのかもしれません。
藤乃さん、どうもありがとうございました」
優里は深々と頭を下げた。
突然の感謝に驚いた藤乃は目を丸くした。
「どうしたの?」
「主任、私を見抜いてましたよね。でも、責めも叱りもしないで、ただ見守っててくれていました」
ああ、と藤乃は腑に落ちて微笑んだ。
「坂井さんは自分に足りない部分を自覚して悩んでいたもの。きっと経験とか時間が解決するだろうって思っていたわ。坂井さんはもう大丈夫ね」
藤乃はそっと優里を覗き込んだ。
優里も照れを隠さず告白した。
「私足元にも及ばないだろうけど、私は主任さんのような看護師を目指しますっ」
優里はスケッチブックの上に置いた拳にグッと力を込めた。
「ありがとう。でも、私だって看護って何かわからなくなることあるのよ。
そういう時はナイチンゲール誓詞を思い出すの。自分は何をしたくて看護職になったのかって」
藤乃は柔らかな三日月の目で優里に微笑んだ。
優里も自然と微笑みで返した。
昼休み、優里は売店に買い物に行った。
そこで偶然、桐谷に会った。
「月岡先生と藤乃主任、結婚するんだってよ」
「えっ? そうなの」
先ほどまで一緒に居たのに、主任は何も言わなかった。
2人の結婚報告を他人から聞かされるなんてと、優里はむくれた。
「あの2人も長いんだろう。今回こんな事件に巻き込まれて愛が深まったんじゃん。でさ」
言いかけたが桐谷は周囲を見渡し、優里がレジで精算が終わるのを待った。
売店から出ると桐谷は優里の真横を歩き、誰にも聞かれぬよう耳元に近づいた。
「で、俺たちのデートはいつにする?」
「なんのこと?」
優里がとぼける。
「出たーー。都合のいい記憶喪失。頭振って思い出せっ」
桐谷が優里の頭を抱えてシャッフルするフリをする。
優里も笑って振られる真似をした。
「そうだったね」
「口約束ってなかなか実行されないだろう。
今週、土日が休みなんだ。どうだろうか」
桐谷の鼻の下が伸びた。
「いいよ。でも泊りはしないよ」
「べっ別に、そういう意味じゃ、土日のどちらかって」
桐谷は顔を赤らめて手を全力で振った。
「私は日曜出勤、だから土曜日ね」
「よおおし、了解っ。絶対に空けておけよっ」
桐谷の感情は手に取るようにわかりやすい。
ルンルン気分の桐谷はスキップして帰っていった。
そんな桐谷の後ろ姿を眺めて、優里は自分が平和は空間にいることを実感する。
コロナ病棟で勤務していた頃は売店にも来れなかったし、気軽に話をすることもできなかった。
吹き抜けの2階の売店の通路から1階フロアを眺めた。
受付、会計、外来、そしてその奥にあの病棟の入口が見える。
その周りだけ不自然に人の流れがない。
暗黒の別世界に感じた。
平和な場所から見ると、あの場所は世間とはバッサリと切り離され忘れ去られている気さえした。
今もあそこで看護師たちが一生懸命に働いているのに。
奉仕? 自己犠牲? 使命感?
各々、様々な思いを抱えながらも、今やるべきことをコツコツと遂行している。
いつか救われる、終焉する日が必ず来ると見えないゴールを信じて。
意識に上げないよう淡々とやり過ごしても、消化できない小さな澱が少しずつ沈んでくる。
そして静かに降り積もった澱に足元を取られ、解放されたいと藻掻いている者がいるかもしれない。
財布を握る優里の手にぐっと力が入る。
自分に出来ることをこなしていくしかないのだ、息が苦しくなる前に優里は身体を翻した。
そして今、自分がいる病棟の方向に足を向けた。
もう自分の足は澱から抜けたのだ。
優里は軽くなった足で精神科病棟へと歩いていった。
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