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リコリスガール|おあずけされている
わたしとわたしの影は、今、いっしょになって1冊の本を読んでいる。
『みみをすますように』
酒井駒子さんの個展の図録だ。ここのところ、美術展に足を運んでも図録が売り切れているということが多くて、どうしてもそれを避けたい気持ちがあったから、書店に注文をして先に購入した。
わたしたちは、額を寄せ合って、1ページ1ページ、慎重にページをめくる。そしてページを繰るごとに、見開きに滞在する時間が長くなる。
嘆息する。
これは、ちょっとやばいんじゃないの。
鼻血が出そう、とわたしがつぶやくと
「やめてよ」
と言って、影が図録をひったくろうとする。もちろんできないんだけれど、影がものすごくあせったのが分かる。
素敵すぎる、わたしがため息交じりに言うと、影はうなずき、
「ねえ、絵本は」
と問う。
わたし、酒井駒子さんの絵本を読んだことはあるのだけれど、そういえば、手元には一冊も持っていないのだった。
これは、由々しきことよ、と思う。あれだけ手に取っていながら、『よるくま』のあのダイナミックなシーンに心を持っていかれていながら、手元に置いていないなんて、いけないことだ。
少しずつ、時間をかけて、絵本を揃えてゆこうと思う。
そう思わせる図録だ。
今日は静かにこの図録を読んで過ごすことにする。
本来ならばこの日、わたしたちは実際の原画と向き合うことができていたはずだった。
特別に休みを取り、準備していた。
それなのに。
COVIDによる緊急事態宣言は美術館の扉を閉ざし、わたしたちから楽しみを奪った。
ずっと以前、吉祥寺のトムズボックスで駒子さんの個展が行われたと記憶している。赤い蝋燭と人魚の頃だったと思うのだけれど、どうにもあの時の内容が曖昧模糊として、絵画の様子をはっきり目に浮かべることができない。
美術展に対して、おおむねそういうことが起きるのだけれど、わたしは、きちんと絵画を見ているようで見ていないのだ。
なんどもなんども、行ったり来たりをして繰り返して脳裏に刻もうとするのだけれど、それがあまり上手ではない。
その点、わたしの影は鑑賞がとても上手で、光がやわらかく四方から届くのをよいことに、わたしから離れ、自由にその絵画の筆致を覗く。あわよくば面に触れてみたりもするのだ。影だからできる特権で、わたしはそれをとても羨ましく思っている。
「筆使いも心地よい」
「きっとこの絵の下に別の絵が隠れている」
「このひまわりは贋作。他のゴッホのものとはまるで筆致が違っている」
わたしは、原画を目の当たりにすると、その熱量のようなものに、いつでも圧倒されて視点が定まらなくなってしまう。それで、なるべく(よい展示会だったら)図録を購入するようにしている。追いかけきれなかった画面の隅々を体感し直したいから。
今回は予習として読むつもりだった。その方が原画を堪能できる予感があったからだ。
実際に目に触れることができるのは先延ばしになってしまったけれど、それでも、この図録の内容に、すでに息を呑んでいる。
この原画が観られるというのはとっても素敵なことよ。
なんで、なんで、なんで、と思う。早く観たいよと、思う。
それとはまた別に、なんで、なんで、なんで、と思う。
ここにこういう素敵があるんだよ。
みんなとろけてしまって、あまねく幸せになってしまえばいい。
わたしも、そして影も、しっかり幸せになろう。
そして、いつかわたし、わたし自身がそういう素敵を紡ぎ出したい。
それを願う。
影がページをめくるのを催促し、そして、やっぱり戻って、と指図する。
ゆっくり、ゆっくり楽しもう。
そして、本当に、ちゃんと原画を観ることができたら、その時は、またそのことをここで伝えるね。
リコリスガール:0003 おあずけされている <了>
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