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芽依さんがお酒を飲みたい気分と言うから、かれこれ二時間、僕の家で酒盛りをしている。
お酒を飲みたい気分だからって、何か悩んでいたり、ストレスを抱え込んでいるってわけじゃなくて、芽依さんはいつだって、純粋に何かをしたいと言い出す。大学を操業して、もう五年も経って、すっかり社会人になってしまったけど、そういうところは、ずっと変わらない。僕が芽依さんを尊敬する、理由の一つ。
こんなにただお酒を楽しく飲む人を、僕は芽依さん以外知らない。
酒豪の様にぐびぐび水の様に飲むわけでもなく、いくつかカクテルの知識があるから、リキュールとジュースを買ってきて、その時の気分で、目分量で割合を変えてカクテルを楽しむ。
カクテルを作る時の目は少年みたいだし、喉を通って一息吐いた時の表情は恋する乙女の様に蕩ける。見ていて飽きないから、勝手に僕の分を作るのと、大量のリキュールのストックには目をつむることにしてる。
芽依さんが酔っぱらったところを見たことがない。自己管理がしっかりしているというよりは、酔わない人なんだと思っていて、いくら飲んでもいつも通りだし、次の日の朝には何事もなく僕に笑いかけてくる。
僕はあまり強い方ではない。醜態をさらしたことはないけれど、それはそうしないように努めているだけ。
今もこうして、酔い醒ましに窓を少し開けて、まだ少し冷たい、春の夜風に顔を撫でてもらっている。
四階建てマンションの三階からでも星が十分見える。次は何を作ろうかとウキウキしている芽依さんと、どっちを見たらいいか迷ってしまう。
だけど僕はどちらも見ずに、窓の外から聞こえてきた声に、耳を傾けた。
猫の鳴き声。かなり大きな声。
ああそうか。そういう季節だ。
「あの声は、何いう事ぞ、猫の恋」
振り向けば、芽依さんが目を細めて微笑みながら、窓の外を見ていた。
「正岡子規だ」
「正解」
芽依さんは立ち上がると、二つ持ったグラスのうちの一つを僕にわたして、ベランダに出る。長い髪が揺れて、ふわりと落ち着く香りが鼻をくすぐった。
僕も続いて出て、二人して手すりに腕を乗せて、猫の声が聞こえる方をぼんやり見つめた。
大きな声が、等間隔に聞こえる。
「猫の発情期まで季語にしてしまうなんて、日本人ってのはロマンチストだよね」
「そう? 私は変態なんだと思っているけど」
「辛辣だなぁ。でも、そうかもね」
グラスを傾ければ、甘酸っぱさが口の中に広がる。
「これは初恋の味?」
「創の初恋はそんな味だったの?」
「どうだっただろう。覚えてない芽依さんは?」
「覚えていないと言うよりも、初恋に味があるという感覚がわからない」
「芽依さんらしい。でも、言われてみれば僕もそうかも」
「意見が合うのは嬉しい」
芽依さんがグラスを軽く掲げたので、僕は優しく自分のグラスをぶつけた。
発情した猫の声を聞きながら、こんなにのんびりとお酒を飲んで話しているのが、急に妙に面白くなってしまって、肩を揺らしてしまう。
芽依さんも同じらしく、僕らはしばらく、静かに笑った。
いつしか猫の鳴き声も止んで、静かな夜に、僕らの笑い声だけが響いている気がした。
了
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