1人が本棚に入れています
本棚に追加
誰もいなくなった夜の学校というのは、どことなく物悲しく目に映るものだ。
生徒用玄関から音を立てずに入り込んだ私は、明かりが灯っていない真っ暗な校舎の中を彷徨い歩いていく。
蛇口の閉まりが悪い一階の女子トイレだろうか。ぽちゃん、という水音が遠くの方から響いてくる。怖いな、という気持ちを抑え、窓から外を見上げると、紺碧の空に浮かんでいたのは真っ白な月。
幻想的な青白い月明かりが射しこんでいる廊下を進み、最初に向かったのは体育館。
ぽつねんと、自分一人だけしかいない広大な空間が、余計に心細さを加速させる。
「寒い」
季節はまだ三月。夜遅い時間ともなると、相応に冷えこんでくる。
コートの襟を立てると、両手で身体を抱き身震いをした。なんだか幽霊でもでそうな雰囲気。
そんなことを意識すると、益々背筋が凍えてくるようだった。
「行こ」
呟きをひとつ落とし、背を向けたその時、キュッキュ……とバドミントンシューズが床を踏みしめる音が、聞こえたような気がした。
「先輩?」
振り返り、体育館の隅で澱んでいる闇に向かって呼び掛けてみたが、当然のごとく返事はない。
だよね。きっと今のは、私の胸中を支配している感傷が聞かせる空耳だ。こうして改めて見ると、この場所で今日の昼、卒業式が行われていたなんて俄かには信じられない。
未練を断ち切るように、私は体育館を後にした。
次に向かったのは三階。階段を登り、三年生の教室に向かう。
カラカラ……と寂しげな音を奏でて扉がすっ……と開くと、私の目の前に、整然と机が並んだ教室の光景が見えた。
一番窓側。前から三番目にある先輩の席に座ると、机の上にそっと頬ずりをしてみた。
そこにはもう、先輩の温もりは残されていない。
彼の家に初めて泊まったあの日。逞しい腕に抱かれて超えた一夜の記憶を思い出すたび、胸が張り裂けそうになってしまう。せめて、もう一度だけ話がしたかった。
彼との出会いは、高校に入学してから入ったバドミントン部。
バドミントンはおろか、スポーツなんて殆どやったことが無い私。友人に誘われるまま軽い気持ちで入部したものの、案の定、厳しい練習についていくのがやっとになってしまう。辞めようかな……そう悩んでいた私に、基礎から丁寧に教えてくれたのが先輩だった。
『恋をする予感』なんてものは、この当時は全然なかった。
でも、ショートサーブとロングサーブの使い分けができるようになったり、ステップを上手に刻めるようになったりと私が何か上達するたび、彼は少々大袈裟に褒めてくれた。そんな彼の優しさであったり歯を見せて笑う仕草に、私が惹かれていくのもきっと必然だった。
気持ちを伝えられないまま時は流れ、意を決して告白したバレンタインデー。
『実は俺も、ユズのことが気になっていた』と言ってくれた時は、天にも昇る心地だった。
まるで消し炭みたいなチョコレートだな、と彼は失礼にも笑ってみせたけれど、頑張って手作りしたかいがあったなと思った。
勇気を出して告白して良かったと思った。
そこからの一年間は、本当に楽しい日々で。秋に行われた新人戦でようやく上げた私の初勝利が、そのまま最後のプレゼントになってしまうなんて、あの頃はこれっぽっちも思ってなかった。
「ふう」
思わず漏れた溜め息とともに、自分の服装を見下ろした。
ちょっとだけ丈を詰めたスカートも、絶対領域の黄金比を意識して選んだニーソックスも、今となっては意味がない。
大きめの瞳が好きだから、と言われ、必死に覚えた目元を際立たせるメイクも。彼の好みに合わせてバッサリとショートにしたこの髪も。全部全部、意味がなくなってしまった。
──全部。あの日の出来事で。
今となっては後悔している。
『じゃあ、また明日』と交わした月並みな別れの挨拶が、そのまま最後の会話になってしまったことを。今日は一緒に居たいの、という本音を隠して、そのまま別れてしまったことも。
「ユズ。もう、未練は全部消えたか?」
背中から声を掛けられ振り向くと、黒っぽい衣服に身を包んだ少年が立っていた。
「うん、大丈夫。これで全部、未練は消えた」
「じゃあ、行こうか」
差し伸べられた彼の手を取り私は歩き出す。
この世界に別れを告げて。自分が住むべき、世界に向かって。
──サヨウナラ、先輩。
◇◇◇
〇月〇日17時30分頃、〇〇市の〇〇駅付近の路上で、路線バスを待っていた小学生や高校生が近づいてきた男性に相次いで刺されるという事件が起こった。目撃者の証言によると、加害者は終止無言のまま、待機列の後方から駆け足で迫り襲撃した。
この事件により、地元公立高校に通う川上柚子さん (16)が出血性ショックで死亡したほか──
最初のコメントを投稿しよう!