夜空の彼方へ

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 ウルド公国のカサンドラ家は表向き古美術の商人でしたが、その裏では武器の輸出入に関わっており、わずか三代で大変な富を築いておりました。  カサンドラ家のお屋敷は、十人ほどの召使いを抱えておりました。  ちょうど今、メイド長に怒鳴られていますこの美しい少女、アイビーもそのうちのひとりです。 「アイビー! 渡り廊下の落ち葉をひとつ残らず掃き出しておきなさいと言ったでしょうが! まったくあなたって子は!」 「はぁい」  竹箒を持つ手を一定速度で動かしながら、アイビー不満げに返事をしました。  メイド長はアイビーには特に厳しく当たります。なぜならアイビーが隣国ミーミル出身の捕虜であり、容姿が優れているというだけの理由でカサンドラ家に引き取られてきた戦災孤児だということを、知っていたからです。 「今日に限ってどうして風がこんなに強いのかしら。掃いても掃いても、キリがない」  カツカツと靴音を立てて去っていくメイド長の、痩せぎすな背中を見つめながら、アイビーが独り言をこぼしました。  そこへ、 「朝から厨房が騒がしいわ」と背後で鈴を鳴らすような声がしました。同じくメイドのジェシカでした。「ミーミルのお客様と、お夕食会ですって」 「ミーミル……夕食……? 珍しい」  アイビーは少し不思議に思いました。 「旦那様、また出資を断られるのかも」  ジェシカはけだるげに、長く垂らした金の三つ編みをくるくる指でいじっています。  実はこのカサンドラ家、二月(ふたつき)ほど前、前の当主が亡くなるという不幸が起こったばかり。  新しく当主となりましたトマス・カサンドラ様は、悪い人ではありませんが、先代のような迫力と闘志に欠け、メイドたちのあいだで、それは心配の種でした。密輸に関する裏の仕事にも、積極的ではないのです。 「今月に入って五件目ね」 「もうそろそろ私たちもクビかしら」 「そうなったらこの世の終わりね」 「お先真っ暗」 「行くあてもなく、飢えて死ぬの、想像したらつらい」  アイビーとジェシカの愚痴と弱音は止まりません。でもどこかしら、その状況を自虐的に楽しんでいるような、呑気な節もありました。 「まあ、私は屋根の上から落ちて死ぬはずだったのだから、むしろ今日まで延命できたことに感謝するべきなんだけど」 「アイビーも今度ばかりは、犬に助けてもらうのは無理そうね」  というのもアイビーはむかし、メイド長に意地悪をされて、屋根の雪下ろしをひとりでさせられたことがありました。  その際、足を滑らせて、あわや落下……というところで、羽根の生えた大きな白い犬に助けてもらったのです。これはアイビーの人生で唯一の、幸運な思い出でした。  だけどほかのメイドたちはみんな、 「羽根の生えた白い犬? そんな生き物いるわけないじゃない」 「アイビーは頭を打っておかしくなったんだわ」  などと決めつけて、信じてくれません。  アイビー自身、それ以来白い犬を見たこともありません。だから「ほんとうなんだ!」と声高に主張するほど、確固たる自信は持てないのです。  信じてくれているのは、ジェシカだけでした。 「アイビー! まだやってんのかい!」  さて、肩をいからせながらメイド長が戻って来ました。アイビーは手を止め、呆れた様子で訴えます。 「あのぅ、そんなに頻繁に見回りに来られても、裏庭の木が全部ハゲ散らかるまで、これ終わらないと思いますけど」 「おだまり!」 「私もアイビーを手伝っていいですか?」  宥めるようにアイビーの肩を抱いて、ジェシカが申し出てくれました。 「そのかわり五分で終わらすのよ」  フンと盛大に鼻を鳴らすと、メイド長は去っていきました。 「ありがとうジェシカ」 「いいのよ。このご恩は忘れないで」  ジェシカはいつも、おどけてそう言うのです。  でも渡り廊下の掃除には、主に手よりも口を動かしたので、結局五時間かかりました。  夜もまだ早いうちから、豪奢な飾りのついた馬車が数台、門のなかに入ってきます。きっちりと正装に身を包んだお客様方が降りてこられるのを、召使い一同頭を下げてお迎えです。 「それにしても妙だわ」  シェフも執事も、総出で宴会の用意を進めています。  ほどなく大広間に、お客様がせいぞろい。  旦那様と、奥様に連れられて、まだ幼いひとり息子もあらわれて、席につきました。 「やっぱり妙よね」  壁際にならんで控えていたアイビーはひそひそと、先ほどおぼえた違和感をジェシカに話しました。 「出資のお断りだとしたら、お夕食会なんて。宴会なんて開いている場合じゃないでしょうに」 「最後の晩餐って言うじゃない?」  とジェシカは欠伸を漏らします。 「不謹慎〜」  でも嫌いじゃない冗談だわ、とアイビーが肩を竦めた、そのときでした。  突然、鼓膜を破るような銃声が、二度鳴り響きました。  アイビーは思わず目をつぶってしまいました。  ついで、 「きゃああっ!」  という鋭い悲鳴。口々に叫ぶ声。 「旦那様ぁ……!」「奥様!」  目を開けたとき、大広間の様子は一変していました。  すでにトマス様と奥様は息絶えて、床に広がった血の池に折り重なって倒れていたのです。 「助けてぇー! パパー! ママー!」  トマスの幼いひとり息子は、客人のひとりであったはずの男に羽交い締めにされ、泣き喚きながら足をバタバタさせています。  あっけに取られている召使いのうち、何人かが、取り押さえようと動きますが、射撃手の腕は正確で、瞬く間に大広間に血しぶきが舞いました。  メイドたちが悲鳴を上げて逃げ回るなか、アイビーはジェシカを引っ張ってとっさにテーブルのかげに身を隠しました。心臓は脈打っていましたが、頭は冴えて、ひどく冷静でした。自分がまだうんと小さかったころ。ウルドとミーミルが戦争をしていた頃には、こんなことがしょっちゅうあったのです。だからアイビーは、その美しい桜色の唇をかみしめて、逆にこれは逃げ出すチャンスかもしれないと考えました。カサンドラ家に襲撃をしかけたのはミーミルの人間です。アイビーはなんとか自分の存在に、気づいてもらえないかと思いました。  しかし、意を決して立ち上がりかけたアイビーを止める手がありました。 「ジェシカ……?」 「私、あなたと離れたくない」  ジェシカはおびえて震えていましたが、アイビーのエプロンの袖を離さず、いつになく真剣な面持ちでつぶやきました。  アイビーの脳裏に、ジェシカとの思い出がよぎります。  それはただ、国の境を越えたからといって簡単に切れるものではありません。それに、このご恩は忘れないこと、とさっき約束したばかりです。ニワトリじゃないのだから、今日の朝に言われたことぐらいは覚えています。アイビーは頷いて、ジェシカを連れて大広間の混乱からこっそり逃げ出しました。 「あいつらお客様だよね? いったいどうして」  なんとか、足音を潜めて渡り廊下までのがれたところで、ジェシカが荒く息をしています。 「わかんない、でも……」  かれらはミーミルの武器商人。何度かお屋敷に出入りしているのを見たことがある顔ぶれでした。ということは、トマス様が、取引先に裏切られた、ということでしょうか。  厨房へ向かう途中で、アイビーはいつも通りではない場所を発見します。 「地下室の入り口が開いてる」  先代の頃から、地下室への出入りは、かたく禁じられておりました。むかしは牢屋として使われていたこともあるそうで、メイドたちのあいだでは、「罪を犯して獄中で死んだ召使いの霊が出る」と語り継がれている場所なのです。  その扉が今、なぜか半開きになっていたのでした。  さらに近づいてみますと、扉の向こうから流れ込む冷ややかな空気とともに、かすかにうなり声のようなものが聞こえます。 「ぐおおおおおおん……」  ふたりは目を見開いたままで、顔を見合わせました。 「まさかほんとうに罪人の霊……?」 「っていうよりは獣のような……」 「地下室にとてつもない猛犬がいるんだわ」 「そんなの初耳……」  ためらうふたりの耳に、 「召使どもを逃がすな、つかまえろ!」  ものものしい男の怒号が聞こえてきます。 「行くしかない。ここに隠れていれば、逃げ切れるかもしれない」  敵襲からのがれたい一心で、ふたりは思い切って扉の隙間に身を滑らせました。  アイビーがジェシカの手を引くようにして、らせん状になった階段を下りていくと、やがて、洞穴のような地下空間に出ました。  壁づたいに燭台がいくつか、ろうそくに火を灯していますが、足元は暗がりです。  奥の方は噂通り、広い牢屋になっているようでした。  さらにそこで、アイビーとジェシカは目の当たりにしてしまいました。  犬よりも恐ろしいものを、です。 「ドラゴンだ」  ごくりと唾を飲み込んでもなお、からからの声で、アイビーはつぶやきました。  暗闇のなかに、ふたつの蒼い目が輝いています。  熊よりも大きな胴体は、黒い塊にしか見えません。ただ、その生き物は低くうなり声をあげながら翼を広げているのです。翼を持つ、熊よりも大きい動物なんて、ドラゴン以外にはありえません。  ガンッ  ドラゴンとこちら側を隔てていた檻が、重たい金属のぶつかる音を鳴らし、ふたりともびくりと肩を震わせました。  すると同時に、驚くべきことが起こりました。   「誰だ」  ひときわ凄みのあるうなり声に乗じて、ですがはっきりと、ドラゴンがことばを発したのです。
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