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契約 02
それからしばらく、央介と顔を合わせることはなかった。
近澤にとっては、むしろそのほうが都合がよかった。
彼と過ごしてから数日が経った後も、余熱のようなものがしばらく引かなかったからだ。
外出時や帰宅した際にはつい隣のドアを見てしまう。
今にそのドアノブが下がるんじゃないのか、あるいは向こうの角から姿を現すかもしれない——そんなことをひそかに期待しながら、いつも以上に時間をかけて、家の鍵を探していることに気づく。
近澤はただ純粋に、彼にまた会いたかった。
しかし同時に、その感情の純度の高さを気味悪くも思っていたから、彼と偶然鉢合わせることを望みながらも、会わなければ会わないで、ほっとするのだった。
そこからさらに数日が経ち、近澤がようやくその余韻から脱したころ、まるで見計らったかのように、彼はまた——目の前に現れた。
「チカさん!」
マンションのエレベーターに乗り込む時、背後から名を呼ばれた。
待ち侘びていた気配を感じ取るなり、体が強張ってしまい、振り返るまでにしばしの時間を要する。
「怜ー、元気かー」
彼の顔はすでに間近——胸元に収まっている怜に迫っていて、近澤は咄嗟に背筋を伸ばしてしまった。
彼はこちらの動揺を気にも留めていないのか、表情を緩めながら怜の頬を指で突いている。
「なんか久々だね」
近澤は、やっと一言、絞り出した。
「そうだよー。チカさんがぜんぜん呼んでくんなかったから」
抱っこ紐から露出した怜の太ももを撫でながら、幼な子相手に「ねー」などと同調を求めている。
「いや、だって……また迷惑かけるわけにもいかないしさ」
「迷惑じゃないよ。俺だって怜に会いたいもん」
央介は、目の下に涙袋をつくりながら、怜を見つめている。
愛息子に一心に注がれた視線は、揺らぐことがない。
それを実感すると、近澤のなかで膨らみかけていたものは熱を孕むことなく、ふたたび萎んでいった。
同時に、自分は今までなにを意識していたのだろうと、年甲斐もない思い上がりを恥じた。
そうだ、彼は怜に会いたかったのだ。
目的はあくまでも怜なのだ。
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