1.二度と会いたくない

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1.二度と会いたくない

 お姉ちゃんがいるって、どんな感じなんだろう。私には、想像できないな。もう十年も会ってないから。  この春、高校一年生になった天津静稀(あまつしずき)は、朝の情報番組を流し見していた時、思わずテレビの音量を下げた。一口サイズにちぎった食パンを、口に挟みながら後ろを振り向くと、母は目玉焼きを焼きながらスマートフォンを触っていた。たぶん、仕事のメールを返信しているのだろうと思われる。私はそれを見て深くため息をつき、再びテレビに視線を戻した。  テレビには、この春放送される学園ドラマの宣伝が行われている。そこに姉がいた。十代から絶大な支持を得ている美少女モデル、ako――ではなく、その左隣に佇み、akoさんのインタビューに耳を傾けている女の子、香月彩夢(かづきあむ)――本名野田香月――が私の姉だ。  二つ上の姉は、私が六歳の頃に家を出て行った。母と離婚して出て行った父を追って。今は、父と二人暮らしをしているらしい。離れて暮らしていても、父からはたまにメールが来る。そのことについては、母は知らない。そして姉と父の話題を出すことは、一切ない。母が、嫌うのだ。だから、母はテレビを見ない。自分を切り捨てた姉を許していないから。  私は耳を澄ませて、テレビの端で笑みを浮かべる姉の顔を、ジッと見つめた。 《今週の金曜午後十時からスタートです。ぜひご覧ください》  姉は、笑っていた。私の記憶の中では、笑ったところなんて見たことがない。  私はテレビの電源を切った。もうそろそろ出かける時間だったからだ。食べ終わった食器をシンクに運び、母と視線を交わして口パクで「行ってきます」と言った。母は笑みを浮かべて私を見送る。  姉が家を出て行ってから十年。最近は、その事実が、私の心を徐々に縛っていくような気がする。  学校へ行くと、友人が満面の笑みで話しかけてきた。香月彩夢のファンクラブに入っている、私の唯一の親友だ。名を、名取夢叶(なとりゆめか)という。小学校から一緒だ。 「ねえねえ、今週の金曜から始まるドラマ、マジで楽しみ!」 「今日、出てたよね」 「見た?」 「見た。音小さくして見たけど」  夢叶は、姉の大ファン。姉が、芸能人だということを教えてくれたのも、夢叶だ。うちは、新聞もとっていないし、テレビやラジオしか情報源がないから、彼女からの情報は貴重なのだ。 「静稀、どうやって見るつもり?」 「……どうすればいいと思う?」 「前はどうやって見てたの?」  姉がドラマに出演するのは、これで五回目。元々はモデルだったけれど、映画やドラマに出るようになってからは、人気を獲得し続けている。 「DVDとかを借りてたんだけど……正直待てないし、テレビがあるのに見れないというのも……買った方がいいかな。小型でいいから」 「それでも学生にはきついよね。一万は普通にかかるだろうし。むしろよく避けて来たよね。お姉ちゃんの出てる番組」 「ゴールデンタイムは基本、テレビ見てないからね」  今までは、ニュースか旅番組ぐらいしか見ていなかった。母の趣味に合わせて、見たいものを我慢してきた。正直おかしいと思う。家族が芸能界で活躍していて、それを誇りに思わないのって、変だと思う。見ても見なくても、姉には一切情報が入らないんだから、自由にしていいと思うんだけどね。 「そういえば! 知ってる? 香月ちゃん、うちの旧校舎でドラマ撮影してるんだって」  旧校舎というのは、昔この学校に、溢れんばかりの生徒が通っていた頃に使っていた校舎で、最近改築され、今使っている校舎の裏手にある。この校舎からだと、周りが木に囲まれていて様子はよく分からないが、突然改築された理由が、今分かった。ドラマ撮影に使う為だったみたいだ。 「来るの?」 「今日、三話撮るんだって」  まだ一話も始まっていないのに、すごい期待度。 「皆知ってるの?」 「昨日回ってきたの。何か、すごい機材が運ばれている所を見た子がいるらしくて。見に行かない?」 「行く!」  もしかしたら、十年会っていない姉に会えるかもしれない。そして、家族として仲直りができるかもしれない。そうなったら……十年ぶりに、一緒に暮らせるように……! 「じゃあ、放課後ね」  私は、その日の授業中、全く集中できなかった。姉が今、近くにいることや、仕事をしていることを考えたら、集中などしていられるものかと思ったからだ。だから、あんなことを言われるだなんて、思ってもいなかったし、想像できるはずがなかった。  放課後、夢叶に連れられて人だかりのできている場所に、ワクワクしながら出向くと、思わず唾を飲みこむような光景が広がっていた。大がかりな照明、エキストラの多さ、大人たちの険しい表情に、役者の和気あいあいとした笑い声。同じ空間にいるはずなのに、まるで別世界に召喚されたかのような異空間が、そこにはあった。  夢叶と私は人の波を押しのけ、やっと三列目辺りに移動することができた。人の頭の隙間から、現場を覗いて姉を探すと、折り畳み椅子に座って、本を読む香月彩夢を視界の端で捕えた。本というには大きく、薄かったのでドラマの台本と思われた。 「いた! いたよ! 香月ちゃん!」  隣でバシバシと私の肩を叩く夢叶に、私は眉間にしわを寄せ、苦笑いを浮かべる。 「可愛い~」  夢叶はメロメロである。同じ顔をしているはずなのに、私にはない反応をしていることから、姉とは作りが違うのだと実感する。だが、画面越しではない姉を間近で見て、思ったことがある。同じ顔のはずなのに、姉は遠くにいても華があった。化粧もあると思うが、立ち居振る舞いが私たちとは別格だった。 「あ、出雲椋平(いづりょうへい)だ」  出雲椋平とは、アイドルグループに所属している十八歳の男。現在、姉に近寄って何か話しかけている。二人がどんな役でドラマに出演するのかは分からないが、遠くから見ていると仲がいいようにも見えるし、出雲が一方的に絡んでいるようにも見える。 「噂通り、チャラそ~」 「すみません、これから撮影するのでもう三メートルほど下がってください。それから、スマホを構えるのやめてもらっていいですか? 写真撮影もお断りします」  女の子たちが「え~」と言いながらスタッフの言う通り、下がっていく。私と夢叶も一緒に下がるが、私は下がりすぎて集団の外に一人だけ放り出されてしまった。もう集団の中に戻る気力はなかったので、先に帰ることにして、その場で夢叶にメッセージを飛ばした。 「――チッ」  メッセージを飛ばした瞬間、すぐ左隣で舌打ちが聴こえてきたので、顔を上げると同じクラスの澄田綺月(すみだきづき)が何かを睨みつけながら立っていた。前髪が長く、普段は誰とも喋らず本ばかり読んでいたので、舌打ちするような人なのかと驚いた。  大人しい人ほど怖いと言うが……。  澄田綺月は、こちらを見て驚いた顔をしていたが、すぐに顔を逸らしてその場を去った。一瞬見えた瞳が、くっきりとした二重だったことに、数秒忘れられなかった。  それから、一時間ほど経って陽が落ちてきた頃に、集団は解散した。私は、夢叶に先に帰るとメッセージを送ったのに、何故か撮影の最後まで残っていた。何だか、残らなくてはいけない気がしたからだ。案の定、集団から飛び出てきた夢叶に「何でいるの?」と驚かれた。 「何か、澄田君がいて」 「澄田? あの前髪長い? 本読んでる? 澄田?」  私は夢叶の言葉に何度か頷いた。夢叶は数秒唸ってから、考えることをやめたのか急に無表情になった。 「そうだ、せっかくお姉ちゃんがいるんだし、会いに行ってみたら?」 「……え?」 「もしかしたら、話だけでもしてくれるかも!」  その時、妙な期待を抱いていた私は、夢叶の言葉に完全に調子に乗り、近くで作業をしていたスタッフにノリノリで近寄った。話しかけたスタッフの人は、私たちの事を邪険にしていたが、私が香月彩夢の妹だと告げると、半信半疑な顔をしながらも、姉のマネージャーの所へ走ってくれた。しかし、数分してスーツをきっちり着た女性と共に戻ってきたスタッフの表情は、とても暗かった。その女性の顔も、私の期待していた顔とは違って、申し訳なさそうな顔をしていた。 「ごめんなさい。香月彩夢のマネージャーです。今、香月にあなたの事を確認しましたが、自分には妹がいないと断言しておりまして……申し訳ないのですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」  防犯の為かは分からないが「妹はいない」と言われるだなんて、心が少し痛む。 「……あ、はい。天津静稀といいます」 「私は名取夢叶といいます!」  マネージャーさんは、私を見て一瞬驚いた顔をしていたが、すぐに険しい顔になった。 「――すみません、香月は妹はいないと申しておりますので、今後はそのような言動を慎んでいただけるよう、ご協力をお願いします」 「い、妹です! 本当です! 顔だって似てると思います!」  マネージャーさんは、苦笑いをして「はぁ」と息を多めに返してきた。私は信じてもらえないのだと思い、自分の手帳にある、幼い頃に撮った家族写真をマネージャーさんに渡した。 「裏を見てください。姉の名前があります。本名が書いてあるはずです」  マネージャーさんは言われた通り、裏を返して名前を見たが、険しい顔つきが取れることはなかった。それから、黙って写真は返却された。 「香月にとって、今は大事な時期なんです。このようなことはもう二度となさらないでください。そして、この学校で撮影が行われている間も、会いに来ないでください」 「お、お姉ちゃんがそう言ったんですか……? 今確認してください」 「――分かりました」  マネージャーさんが、その場でスマートフォンを取り出し、あるところに電話をかけてくれた。すぐに出たようで、マネージャーさんが相手に軽い説明をする。 「スピーカーにします」  マネージャーさんは、通話画面にある、スピーカーのマークをタップした。スマートフォンから「もしもし」と今朝、テレビで聴いた声と同じ声が流れてきた。昔と変わらない大人びた口調に、演技で鍛えられた伸びやかで通る声がその場を一瞬で制した。 《――一度しか言わない。二度と会いに来ないで》  ブツッと一方的に切られたことに、私たちの十年が集約されたことを理解した。十年という時間は、長いようで、あっけないことを知る。  マネージャーさんは、ため息をつきながらスマートフォンをしまい、「それでは」と言って走って立ち去った。立ち尽くすことしかできず、隣にいた夢叶も呆然としていた。  冷たい言葉が、何度も頭の中をリピートしている。マネージャーさんから言われたことを、もう一度本人から直接聞くことになるだなんて思わなかった。 「……ごめん、さっさと帰ればよかったね」 「違うよ、夢叶のせいじゃないよ。私が……お姉ちゃんを困らせたの」  芸能人になって日本中にもファンがいて、昔一緒に暮らした家族の事なんて、たぶん彼女には必要のない物だったんだ。だけど私は十年間、お姉ちゃんの事を忘れたことなんてなかったのに。 ***  香月彩夢はイライラしていた。撮影が順調に済んで、帰ろうかと思っていた矢先に、マネージャーの草亀から電話がかかってきたのだ。何事かと思えば、十年も前に離別した妹の事だった。咄嗟に、二度と会いに来るなだなんて言い放ったものの、すぐにその言葉が安直だったことを反省する羽目になった。 「他の人間もいたのに、なんて乱暴な言葉遣いを……」  これからだって時に、意識が低すぎる。もう少し上手いあしらい方があったはずなのに。 「お疲れ様です、香月さん」 「草亀さん……」  ピシッと着こなしたスーツに、後ろで一つにまとめた髪の毛が、彼女の武装だった。私が本格的に、芸能活動をし始めた時からの相方だ。 「すみません、一度断ったのですが……写真を見せられた挙句、顔が似ているでしょうと言われてしまって。香月さんの手を煩わせてしまいました……」 「でもまあ、あれくらい強く言わなきゃいけないなとは思ってたよ。だってあの母親の娘だもの。一発言っとかないと、しつこいし」  私は木々の隙間から見える、別の校舎を見上げる。妹が普段、勉強に勤しんでいる校舎だ。 「……今日は疲れたのかも、普段ならあんなこと言わないのに」 「確かに、今日は天気が不安定でしたし。長時間でしたから」 「今思ったんだけど……私、あの家を出てから十年経ってるわ……」 「そう、でしたか」  草亀マネージャーが、眉尻を下げて困った顔をして見せた。十年間、何だかんだ一緒にやってきた人だ。私の姉のような存在の人でもあり、小さかった私に、世間の事を教えてくれた教師でもある。 「やめよ、こんな話。もう二度と会わないんだから。帰ろうか」  草亀マネージャーは、その後すぐ無表情に変わり、車に荷物を載せに行った。私は、もう一度妹が通っている校舎を睨んだ。ちょうど西日がかかって眩しかったからだ。私はため息を残し、草亀マネージャーの待つ車へ走っていった。  久しぶりに聞いた妹の声が、脳裏に張り付いているようで、気味が悪かった。 ***  学校から静稀が家に戻っても、日常が変わることはなかった。むしろ、悪化しているように感じた。帰り道で何度もついたため息を、また玄関に吐いた。親友にも気を遣わせてしまい、姉にも完全に拒絶されてしまった。  この十年は一体、何だったのか。 「ただいまー」  誰もいない家に、今日は珍しく言葉を投げつけた。喋っていないと、またため息をつきそうだったからだ。手を洗い、リビングに入ってテレビをつける。今は夕方のニュースをやっている。アナウンサーやコメンテーターが、一生懸命世の中の出来事に対して意見を発している。残念ながら、夕方のニュースではあまり芸能関係のことはやらない。その代わり、動物や街のインタビューなどが多用される。だから、今朝の姉のインタビューをもう一度見ることはできない。 「……私、なんかしたのかな」  いきなり会いに行ったことに関しては、こちらが悪かったと思う。でも、身内だし同じお腹から生まれた姉妹だよ? 妹なんていないとか、会いたくないとか、言葉が乱暴すぎやしないか?  姉の事を考えながら、ボーッとテレビに映るアナウンサーの見ていると、鞄に入っているスマートフォンから通知音が鳴った。すぐに鞄から取り出して、ロック画面を確認すると夢叶からメッセージが来ていた。メッセージをタップして、トーク画面に移行する。 《今まで言ってなかったんだけど、香月ちゃん、妹いること公言してないんだよね》 「――え?」  メッセージの内容を何度確認しても、意味が分からなかった。 《離婚していることはインタビューで言ってるんだけど、妹はいないって言ってるんだ。事務所のプロフィールにも載ってる》  私の存在は、現在どころか十年前から抹消されていたらしい。思わず、スマートフォンを持つ手が震えた。 《ごめんね、今日は。あんなことになるだなんて思わなくて》  私だけが知らなかったのかもしれない。お母さんも、何かの拍子で姉の発言を見かけて、私に気づかせないように配慮してくれていたのかもしれない。私だけが、無邪気に喜んでいたんだ。 ――だけど……。  私は、夢叶にメッセージを飛ばした。 《そんなこと気にしなくていいよ。でも私、応援する気持ちは変わらないし、嫌いにもならないから》  私のお姉ちゃんだから。嫌いになんてなるはずがない。今日は、仕事が忙しかっただけなんだ。いつか、必ず家族で食卓を囲める日が来る。  私はダイニングテーブルを見下ろし、その面を撫でた。二人分しかない椅子に、机のスペース。十年間、そこには母と私しかいなかった。  きっと来る。大丈夫だよ。今後こそ。 ――野田香月が家を出て行く一週間前、親が離婚した。当時六歳だった私は、状況が良く分からなかったが、父と母が離れ離れで暮らさなければならないということだけは、雰囲気で理解した。しかし、姉は何となく不服そうな顔をしていた。  両親が離婚した理由の第一は、父が突然、不当解雇されたことにあった。収入源がなくなり、しばらく母の実家にお金の工面を頼むようになってから、母の態度は激変した。一向に再就職先が見つからない父に、苦言を申すようになった。それが嫌だったか、家族に迷惑がかけられないと思ってか、父はすぐに家を出て行き、消息不明になった。  朝の五時半に、玄関の扉が閉まる音を聴いた姉が飛び起きて、慌てて玄関まで見に行ったのを覚えている。それから、姉はすぐに母親を起こして、父が出て行ったことを訴えた。私はその様子を、ぼやーとした頭で観察していた。  父が出て行った二日後、姉がこれから父を探した方が良いと、母に訴えていたのを私は遠巻きに見ていた。 「――だから、その話は昨日したでしょ。男なんだから逞しく生きてるわよって」 「何でそんな冷たいの?」 「冷たいわけじゃないわよ。収入のない人と一緒に暮らしてたら、家族まで不幸になる。実家のお金だって、すぐに返さなくちゃいけないの。一人だって養っていくのは大変なのよ? お母さんの収入じゃ、四人丸ごと支えきれないの。分かるでしょ?」 「……分かるよ。でも――」 「あー! 香月うるさい。黙ってて」  姉はそれ以降、父の話をしなくなった。そして、母と会話をしなくなった。私とも目も合わせなくなって、朝は学校に一人で行くようになった。登校班を無視して。そのことで何度か学校から母に電話が入ったけれど、母は姉に注意をすることはなかった。  姉が出て行った日の朝。一人で行こうとする姉の手首を、母は強く掴んで、私の背中を押した。 「――今日こそは、二人で行きなさい」  姉は私が靴を履いたタイミングで、玄関の扉を開けた。私はその扉の向こうへ、急いで体を押し出した。鍵を閉めた姉が私を見下ろして、今まで聞いたことのない低い声で私に問うた。それが、十年前交わした姉との最後の会話だった。  姉の質問は二択で、私は迷わずその選択肢を選んだけれど、姉の表情は曇ったままだった。私を軽蔑するような目つきで、姉は私を見ていた。よりにもよって、その日は空気がカラッとした快晴で、一点の曇りもない青空が広がっていた。それ故に、空と対照的な姉の顔を見て、私は唾をゆっくりと飲み込んだ。 「――静稀は、お母さんとお父さん。どっちと暮らしたい?」  たぶん、姉は母を一人にするつもりだったのだろう。父を切り捨てた母への仕返しに。だけど私は、迷わず「お母さん」と言ってしまったのだ。  それが理由かは分からなかったが、姉はそのまま家に帰ってくることはなかった。机の上には、学校のプリントの裏に姉の文字で「父の所へ行きます。さようなら」と書かれた紙が置かれていた。その手紙から、元々帰ってくるつもりはなかったことが一目で分かる。  もしあの時、私の答えが「お父さん」なら、姉は私も連れて行ったのだろうか。  普通に考えて、私の答えは間違っていなかったと思う。経済的余裕のない父に迷うことなくついて行くことはできないと、他の人も考えるだろう。情だけでは生きていけない。それに六歳の子供だ。どっちがいいかなんて、あの時に考えられるはずがない。離婚の意味もよく分からなかった時だ。  だけど姉は、迷うことなく父について行った。母よりも好きだったということもあるだろうが、十年経った今でも、私は父について行くことはできない。例え母よりも父が好きだったとしても、だ。  母は、姉の置手紙を見てため息をついた。それから母は、いつも通りご飯の支度を始めた。まるでそこに、父も姉も存在していなかったかのように、二人分の食事を並べて笑っていた。私はその日から、「もう置いていかれずに済むのだ」と、子供ながら残酷に笑みを浮かべていた。  私の姉の印象は、常に前を歩く追いつけない人だった。たぶん、一生変わらないと思う。追いつけないどころか、彼女はもう別世界にいる。一生手の届かない所にいる。  静稀は朝が得意だった。誰も起こしてくれなどしないから、寝る前にいつも起きる時間を想像して寝るようにしてから、自然と予定時刻には目が覚めるようになった。今じゃ保険の為に目覚ましをかけているが、朝から音が鳴ることは滅多にない。起きて顔を洗うと、次に静稀は母を起こしに行く。そして、朝食は静稀が作り、母は朝から仕事のメールを確認する。朝食を取り終え、出かける十分前になったらテレビを消して、母に行ってきますと挨拶をする。それが狂ったことは未だにない。  学校に行くと、夢叶が片手を上げておはようと言う。だけど今日は、少し暗い。昨日の件だろう。 「夢叶、そんな暗い顔しないでよ。テンション下がるじゃん」 「……うーん、一応私のせいでもあるからさ」 「そんなことないって。知らなかったことすごく恥ずかしかったなって、昨日思ったもん。久しぶりに、お姉ちゃんの夢見たし、もう満足かな」 「香月ちゃんの夢? 気になる!」  相変わらず、姉のことになると目を輝かせる夢叶に、私はもう元気なのかと笑った。 「姉が出て行った時の夢。面白くもなんともないよ。何度も話してるでしょ」 「香月ちゃんが、お父さんの所へ行った話だよね? 捜索願も出さなかったし、学校も勝手に転校手続きしてたんでしょ?」 「そうそう。翌日お父さんと一緒に学校に行ったらしくてさ、そのまま野田の戸籍になって……」  夢叶が暗い顔をする。さっきまで明るかったのに、また暗い顔をしてコロコロ変わるなぁ。 「そう言えば……澄田君のことなんだけど」  夢叶の顔が神妙な面持ちに変わった。澄田君と言えば、一瞬見えた、くっきり二重の舌打ちしてた人のことだ。昨日の今日で何か分かったことでもあるんだろうか。 「昨日さ、コンビニに寄ってたら見かけて、跡をつけたんだよね」 「……え?」 「だって昨日、澄田君がどうのこうのって言ってたから気になって! そしたら、あるマンションに入って行くのが見えて、何だマンション暮らしか、金持ちだなーって思って帰ろうとしたら、いたんだよね。出雲椋平が」 「……まず、跡をつけるのをやめようね。怖い」 「だって、気になるじゃん。わざわざ撮影現場に来るぐらいだし。それに、出雲椋平のこと! 何か知り合いみたいだったんだよね」  知り合いか。芸能人と知り合いだなんて、私のように身内か、友達ぐらいじゃないとあり得ないよね。 「何でだろうね? 本人に聞いてみる?」 「あなた、跡をつけてたことバレるけどいいの?」 「……良くないわね、やめるわ」  アイドルの出雲椋平と澄田綺月君。どんな関係性なんだろう。雰囲気とか、まるで違うのに。  放課後、部室へ行く夢叶の背中を見送って、私は教室を出た。廊下にはまだ、生徒がたくさんいて、その誰もがこれから部活をしに行くのだろうと、羨望の目で私はその前を通り過ぎた。しかし、そんな私の横を勢いよく通りすぎる生徒もいた。部活用のバッグも持たず、長い前髪からのぞく鋭い眼光を、一点に集中させながら、彼は走り去っていった。彼の通った後に、風が追っていく。  澄田君だ。私は家の家事などをしなければいけないので、早めに帰るのだが、澄田君は部活に入りもせず、私と同じように、急いで帰らなければならない用があるのだろうか。唖然としながらその背中が見えなくなるまで立っていたが、スーパーに早く行かなければいけなかったので、私も速足で人の多い廊下を歩いた。
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