てるてる坊主にさようなら

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「おはよ。電車はやっぱ涼しいなあ」  のんきなものだ。 「おれはおまえのせいで暑い。向こう行け」 「冷たいこと言うなって。そういや数学のアレやった?」 「アレ? やったに決まってんだろ。今日までだぞ」  アレというのはおそらく宿題のことだろう。陽平は物事をアレ、ソレ、コレで説明する癖がある。要するに語彙力がないのだ。 「そんじゃ、あとで見してよ」 「はあ? なんで」 「だってハジメ、おれよりは頭いいじゃん。おれよりは」  おれよりは、を強調されるとなんだか腹が立つのは気のせいか……。ふと陽平の手に持っているものを見て、祝はギョッとする。 「おまえ、なに持ってんの?」 「ん、ああコレ? ナス」  ナスであることは見ればわかる。陽平の手には、つるりんと光る紫色の大きなナスが片手に二つずつーー計四つもあった。しかも何の袋にも入っていない。すがすがしいほど空気に触れているナスだ。  郊外とはいえ、ここは東京である。制服姿の高校生がむき出しのナスを両手に、朝の電車に乗っているなんておかしいだろう。どうりでさっきからチラチラと他の乗客に見られているような気がした。  ここで笑い話にできるのが一般的な男子高校生というものなのだろうが、あいにく祝にそんなスキルは備わっていない。代わりにナスを持った陽平の手を、パシッとはたく。 「ちょっ、あぶないな。落とすじゃんかっ」 「落とせそんなもん」 「ひっでー。せっかく鈴木のじいさんからもらったのに」 「だれだよ鈴木のじいさんって」 「おれんちの隣で自家菜園やってるジジイ」 「隣だったら家の冷蔵庫に置いてけよ!」 「だって遅れそうだったし。そ・れ・に」  陽平は大きな目をいたずらっぽく三日月のような細目にして笑うと、押しつけるようにナスを祝の学校鞄に入れてきた。 「いやいやいや、何してんのっ?」 「おれ料理しないし。いらないもん、ソレ」 「おれだっていらねーわっ」  親になんとかしてもらえよ、というフレーズが一瞬頭をよぎる。だが、祝はすぐさまそれを抹消した。  陽平には、親がいない。五年前――中学に上がる直前に、事故で両親を亡くしているのだ。中学時代は親戚の家にいたらしいが、高校に進学する春、両親と三人で暮らしていた実家に一人で戻ってきたらしい。  祝が高校で知り合った時には、陽平はすでに一人で暮らしていた。出会った当初は、高校生なのに一人暮らしだなんてすごい、と感心したものだ。だが、友達として付き合っていくうちに、尊敬する気持ちも空気が抜けていく風船のようにしぼんでいった。  語彙力はないし、人の弁当からはおかずを盗むし、宿題だって祝がトイレに行っているあいだに勝手に机から抜き取って見ているし、おまけに企画モノのAVが大好きなのだ。  企画モノの良さは、祝にはよくわからない。『時間を止められた女優が、何をされても微動だにしない』みたいな非現実的な設定のものより、本物と作り物のラインが絶妙な現実味のあるやつの方が興奮するというものではないだろうか。そう言うと、陽平は必ず「童貞くさっ」とバカにして笑う。  童貞は事実だが、笑われる筋合いはない。  特殊な設定のAVを鑑賞しつつ「ありえねえ」と爆笑しながらオナニーをする男より、よっぽど健全だと祝は思っている。  そんな陽平はどこからか食材を手に入れてくると、必ず祝のもとにやってきては青山家の夕飯をねだってくる。今日はたまたまナスだけど、冬にはネギと白菜ともやしを持ってきて、さりげなく鍋を要求してきた。
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