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「ほら、水だ」
夜叉鬼はそう言い、石窟の入口の前に立った。ここは代々山鬼に受け継がれてきた場所だ。中には磨崖仏を堀りかけた跡が残っている。何処の誰がいつ頃掘ったものか、何故途中で掘るのを辞めてしまったのか、今となっては誰も知るものはいない。ただただ仄かな暗がりのなか、うっすらと笑うその口元だけが怪しく不気味に見る人の心に焼き付けられる。
青年は目を虚ろにしながら夜叉鬼に顔を向けた。
「欲しいか」
夜叉鬼は竹筒をこれ見よがしに前に差し出した。
切羽詰まった顔をして、口を半開きにしながらも無言でこくこくと必死に頷く。地面に呉座を敷き、その上に二本の太くて重みのある丸太を横たえて、一本は彼の頭上に置き、手首を。もう一本は足首を縄で縛り付けていた。両手両足を拘束されて仰向けになった青年はそのままずっと身動きがとれないでいる。だから勿論自らの意思で食事は愚か、水さえも自由に飲むことは出来ないのだ。
夜叉鬼は竹筒の水を自分の口に含んだかと思うと、彼の横たわる場所へと歩みを進めた。そして青年の顔の上まで来ると、次の瞬間口に含んだ水を彼の口めがけて上からピチャッ、ピチャッと少しづつ垂らし始めた。
「うっ……うぐっ」
青年は夢中で口を開き、ほんの少しの水分を狂ったように貪った。
「もう一度言う。服従しろ 」
「……」
「しないなら、ひと思いには殺さない。こうやってじわじわと飢えを与え続ける。息が耐えるその瞬間までな」
青年は水が落ちてくるのが止むと、再び顔をそらしてだんまりを決め込んだ。初日に拘束されてからずっとこの調子だ。初めの頃は普通に竹筒を彼の口に押し当てても、反抗して固く口を閉じ、水を飲むことはしなかった。そこで痺れを切らした夜叉鬼は、ここに訪れる回数を極端に減らすことにした。その案は功を奏し、独りで長時間しいんとしたところに拘束されて更に何も飲まず食わずであったから青年の意思は揺らぎに揺らいだ。しかし今回も辛うじて意地は通した。
夜叉鬼は諦めて、彼に背中を見せた。そしてこの部屋の出口へと歩みを進めた。
「今日も駄目か。こんな強情っぱりは初めてだ。今までで一番良い刺客だ。若いのに大したもんだ」
するとその言葉が彼の心に深く突き刺さった。――――――――――
早々に舌を噛み切り、死んで逃げることも出来ただろうが自分は今までそれをしなかった。希望を捨てなかった。蟻の睫毛ほどでもいつかどこかで逃げ出す機会があると信じて疑わなかった。
俺がこんな目に遭っている間も夜叉鬼を討ち取れと命令した奴らは旨いものを食い、ここよりはずっとマシな寝床で寝ているのだろう。そう思うと、何もかもがどうでも良くなってしまった。
もう、いい……
俺は十分にやった。『今までのなかで一番の刺客だ』とあの夜叉鬼が暗に自分を認めてくれたのだ。
「まってくれ……」
消え入りそうな声を辛うじて発したが、その山育ちのずば抜けた聴力で夜叉鬼はきちんとそれを聞き取っていた。
「なんだ」
「服従……する……」
夜叉鬼は青年の仰向けになっている場所に戻ると、彼の隣に片膝をついてしゃがんだ。そして遂に自分に屈したものの耳元でこう囁いた。
「よし。とても利口だ」
そしてそのまま更に続けた。
「名前を言え」
「やま……ね……こ」
「山猫、か?」
彼はこくんとただ頷いた。とても疲れているのが伺える。目がとろんとして、焦点が合わずに、今にも瞑ってしまいそうであった。
「良い名だ。似合っている」
夜叉鬼はそう言って彼の下唇を親指でそっとなぞってやった。水と栄養が摂れていないためか、とてもガサガサしていた。そこから指を離したかと思えば今度は顔をそのまま青年の首筋に埋めてそこを甘噛みした。
「んっ……」
彼から思わずそう声が漏れる。と、夜叉鬼がぱっとそこから顔を離した。
「温泉に入れてやる。酷い匂いだ」
無理もなかった。彼は捕らえられてこの場に張り付けられてから三日三晩経っていた。そして更にその二日程前からずっと夜叉鬼を見張っていたのだから。
「おん……せん……」
朦朧とした意識のなかで青年は呟く。
「そうだ。俺達の縄張りのなかには数多の温泉が湧き出ているからな。大抵は煮たった湯が岩から吹き出しているだけなのでとても入られたものではないが……丁度良く川の水と混ざるように湧き出しているところがある。その川にこれから連れて行く」
夜叉鬼はそう説明しながら彼の手足から慣れた手付きで縄を全てほどいてやった。すると悪足掻きをする気力はもうとっくに無くなってしまったのか、自分の後ろに座り込み身体を起こして支えてくれた夜叉鬼の懐にくったりと身を委ねた。そして、そのままゆっくりと目を閉じた。
「……先ずは水と食い物が先かな」
夜叉鬼は苦笑してそう呟くと、スヤスヤと寝息をたてているその頬を慈しむようにひと撫でした。
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