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「鬼丸さんええか。今から大事なこと言うさかい。よーく聞いてや」
屋敷に来てから丁度四ヶ月。秋晴れも少なくなり、木枯らしが寂しく吹いてきた頃だった。耶駒は鬼丸を呼び出し、深刻な面持ちでそう言ってきた。
「散々待たしてもうて堪忍な。そやけど今までほんまに良う頑張ったね」
「? ……何のことだ? 」
さっぱり相手の言っていることが理解できずにそう聞くと、耶駒はニコニコと笑いながら伝えた。
「この屋敷から、出られるで! 」
「! 」
鬼丸はあまりにも突然のことだったので驚いて声が全く出なかった。しかし気を取り直して一呼吸置いてから尋ねた。
「何で?! 」
「それは……」
耶駒は何かに気が付くと言葉を濁した。そして、
「ちょいこっち来て」
そう言って鬼丸に手招きをし、自分のいるギリギリ近くに移動させた。そして、そっと耳打ちをした。
「ええか。絶対に口が裂けても誰にも言わんといてや……」
鬼丸は頷き、耶駒は続ける。
「焼き討ちや」
「はっ?! 」
鬼丸が思わず大きい声を出したので耶駒は周りに誰もいないことを確認すると、それをなだめた。
「九条様の弟はんが今日の子の刻にな……ここに火ぃつけるさかい」
「何でそんな急にっ……九条様はどうなるんだ? 」
鬼丸は動揺を隠せなかった。
「大人しゅうしとったら捕らえられる。最後まで歯向かうなら……恐らく殺される」
「……そんな……」
遠い目をしている鬼丸の肩を耶駒はがっしりと掴む。
「あんた、他人の心配しとる場合ちゃうで。里に一刻も早く帰りたいんやろ? 」
「……」
鬼丸は何も言えずにただ口をポカンと空けて、暫くすると顔を俯けた。
そうだった……。でも……九条様は……。
それを考えると胸が苦しくなった。
「ほれ、こっち向いてみぃ! 」
耶駒は鬼丸の顎を片手で掴んで無理やり顔をあげさせた。
「ええか。上手いこと逃げ出す機会は一回きりやで。煙が出始めて屋敷中が騒ぎなったら、どさくさに紛れてここの屋敷の正門を抜けなはれ。そしたらすぐ左に向かうんや。で、そんまま走っとったらすぐにちょっと高い塀があるさかい……それ、何とかして飛び越えてや。そしたらこの長岡京から抜けられるさかいな」
「うん……でも……もし失敗したら? どうなるんだ? 」
耶駒は不安そうにする鬼丸の頭をひと撫でした。
「安心しなはれ。はっきり言って、この都の護衛なんてほんっまに生温いんやわ。帝のご意志でもう何年か後には都をここからもうちょい北側に移すんどす。それで今、あちらこちらの屋敷をばらす準備もしてるとこやし、えらい高い城壁だってあらへん。他の屋敷行ったらわかるんやけど、九条家が弟はんの意向で他んとこより異常に護りを固くしとるだけなんや。だから九条の屋敷でないところは、盗賊が入りたい放題や。逆に脱走失敗する方が難しいわ」
耶駒はそう言って笑った。
「そうなのか? 」
「嘘ちゃうで」
そして鬼丸は何かに気が付き、それを耶駒に尋ねた。
「そういえば。何で耶駒さんがそんなことを知っているんだ? 誰から聞いた? 」
耶駒はまた顔をありったけ近づけて誰にも漏れないように喋った。
「九条弟はんのお付き人の東郷様や。あの方がこの屋敷の何人かにずっと前から話を持ちかけてきてたんや。一人一人に根気良くな。
ありがたいことにわいにもお声がかかった。で、鬼丸さんにもこないに嬉しい報告が出来たちゅうわけや。あ、前から知ってたのに直前に打ち明けたことは堪忍してな。あんたは何でも顔に出やすいさかい。万が一この計画が他にバレたら思うて。
何せ内密なことやさかい、わいもこれ以上詳しいとこは教えてもらってへん。
何でも、弟はんの兵たちがこちらと刀交えて厄介な者にだけ声かけてるみたいや。恐らくは無血開城に持っていきたいちゅうとこか」
「そうか……分かった……ありがとう」
鬼丸は嬉しいのだが何か胸にモヤモヤしたものが引っ掛かり、その場で素直には喜べなかった。そんな彼を見て、耶駒は忠告した。
「言っとくけどなあ、鬼丸さん……」
鬼丸はいつもより低い耶駒の声に思わず顔をあげた。
「情にほだされて最後までここに残って、九条様の弟はんや他の役人たちに素性を知られてみぃ。それこそここよりも厳重な所に身柄引き渡されて、お宮が管理するのんびりとした書面が通るまで自由に身動き出来ひんよ。今よりずっと事態は悪なる一方やで。
何せ鬼丸さんは――――――――
法を犯してやり取りされた奴婢やさかいね」
それを聞いて鬼丸は事の重大さを理解した。
甘い考え方は捨て、自分の目的の為に心を鬼にしなければならないと必死に己に言い聞かせた。
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