好転

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鬼丸は遂に何も行動を起こすことが出来ずにただひっそりとその時を迎えた。 鐘、(ここの)つ。時を知らせる合図が全て鳴り終えた。 ()の刻。 大将が片手を静かに挙げると、九条稀仁(くじょうまれひと)屋敷の正門がひっそりと開かれる。外から九条是仁(これひと)率いる軍二十数名が速やかに侵入する。 庭からの異様な数の足音に異変を感じた何も知らない従者一名が外へ出る。そしてその光景を目の当たりにすると、恐怖に抗い声を振り絞って……叫び声を上げる。 「てっ……敵襲(てきしゅう)ー! 夜襲(やしゅう)やぞぉー! ……」 そう言って屋敷中を駆け抜けた。 女房(にょうぼう)(※女官)たちもようやく外着を身に纏いながら部屋から出てきて、騒ぎだす。屋敷内は悲鳴でごった返した。人の往来が激しくなる廊下。普段澄ましたものたちが形振(なりふ)り構わずに我先にと他を押し退けて正門の方向へと逃げ惑う。 それでも屋敷内の護衛たちが動く様子は一切なかった。是仁の部下たちは何も邪魔するものが無かったので、蜘蛛の子のように素早く散らばって次々と一部屋も残さずに順番に戸を開けていき、中を確認する作業に没頭していた。 ◇◇◇ 最初の伝令の叫び声は稀仁の元にも届いた。 すぐに布団を剥ぎ取ると、いの一番にしたことは鬼丸に駆け寄ってその手を引くことだった。 「鬼さん夜襲やっ! 早う逃げるでっ! んもうっ、護衛のもんらは何しとるん?! 」 この屋敷の主人でありながら、健気にも奴婢(ぬひ)の鬼丸を護ろうとその手を引っぱり走ろうとする九条の後ろ姿を見た途端に、鬼丸は胸がズキンとして耐えられなかった。思わずその場に立ち止まってしまった。 「何してるん? 早うっ鬼さん! 」 鬼丸は顔をあげ、焦る九条を見据えてその重い口を開いた。 「……ごめん九条様。俺あんたに嘘ついてた……」 「……急にどないしたん? 」 鬼丸は頭を深々と下げて言った。 「俺、この焼き討ちのこと前から知ってた。なのに九条様に黙ってた」 「え? ……は? ……しってた? ……」 九条はまだ混乱しているようであった。鬼丸は続ける。 「俺、最低だ。自分がここから出たいからって九条様をみすみす見殺しにしようとした」 鬼丸は突然の告白でまだ躊躇っている九条へ簡単に説明した。 弟が前からここの焼き討ちの計画をたてていたこと。 鬼丸はその計画を今日の日中に知ったこと。 以前からここの護衛の殆どが弟に懐柔されていたこと…… そして自分は仇討ちしたいが為にどうしても早く故郷に帰りたいこと。 それを一通り耳にした九条は鬼丸に尋ねた。 「なあ。鬼さんにこの計画を教えたんは……誰? 」 「ごめん……それだけは言えない……」 鬼丸はそう述べたが九条には大体察しがついていた。一つ大きな溜め息をつくと、鬼丸に語りかけた。 「そうか……鬼さん。ようぞ話してくれたなぁ」 「……え? 」 最低な自分を罵られる覚悟でいた鬼丸は、その言葉に拍子抜けした。九条はにっこりと笑って続けた。 「遅かれ早かれ、いつかこうなると思っとったさかい。あんまり気にしいひんでもええで」 「そんな……」 今度は鬼丸が混乱し始めた。 「前はここなんか絶対寄り付かんかった弟が珍しく最近屋敷を行き来するなぁ思っとったさかい。こういうことは覚悟しとったんや」 九条はそう言うと不安そうにする鬼丸の手を取り直して、もう片方の手を重ねて優しく撫でた。 「元々うちは生きてても意味無い人間さかい。あんまし未練はあらしまへん。ただ、鬼さんが無事でいてくれたらそれで……」 そして鬼丸の手を自分の頬に擦り寄せた。 「もっと早うに自分でこの世から消えたろ思たことも何べんかあったんやけども。せっかく生まれてきたんやからどうせなら一度はええ思いしてから逝きたい思うてて。 そないしてたら鬼さんのようなお人と出会うた。それからのうちは、望んでたこと叶えてもろうて。愛しいお人とずっと一緒に過ごすこと出来て、したいことして……ほんまに夢のようやったぁ。やけど欲が出てしもうて、出来ることならずっとこのままあんたの隣に居たい思うて……せやけど、こうなったらもう(しま)いや。あんたと離れ離れなることは避けられんさかい……」 そこまで言うと頬から鬼丸の手を外した。 「鬼さんがそないに大変な時に散々振り回してしもうたなぁ。堪忍なぁ。今のうちに早く逃げて」 「でもっ……」 九条の手も鬼丸から離れた。 「さ、早く。うちは大丈夫(だんない)」 それを言い終わるか終わらぬうちに、鬼丸は九条のことをぎゅっと胸にありったけ強く抱き締めた。 「……どうかっ! ……どうかどんなことがあっても死なないでくれ、九条様…… お互いに生き残っていつかきっと……また会おう! ……」 鬼丸の暖かな胸の中で九条は止めどなく涙を流した。しかし暫くして名残惜しさを堪えて鬼丸を突き放した。 「うん。必ず会おうなぁ。……さ、早う。今逃げんと取り返しがつかのうなんで」 そのあと鬼丸の肩を掴んでくるりと自分に背を向けさせた。しかし、突然何かを思い出したようだった。 「あっ」 「? 」
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