貝の押絵と旅する女

12/13
前へ
/13ページ
次へ
* 娘さんをください、なんて、彼が父に頭を下げている頃。私は台所でアサリの砂抜きをしていた。彼の好物のピラフに混ぜようと、晩ご飯の支度をしていたのだ。 そこに母がやってきた。 すぐに私はフライパンに白ワインを加える手を止めて、頭を下げた。 「……私、東京でちゃんと転職する。倹約して彼に尽くす。……ほんと面倒くさい子でごめん。」 「もうええよ。」 思いがけない言葉が聞こえ、顔を上げた。 「苦労かけたね。こんな……ええ子に育ってくれて。ユメノならどこに出しても大丈夫。家にずっと閉じ込めてきた分、家事なんてお母さんより出来るもの。」 初めて見る優しい顔だった。 いや、見ようとしていなかっただけなのかもしれない。我慢ばかりだと思った環境が、帰る場所なのだと思うと、そのときふと愛おしく感じてしまったのだ。 「給料も自分達のために使いなさい。」 バターやニンニクで下拵えしたフライパンに、しゃもじで炊きたてのご飯を入れると、母はザルに入れたアサリをそこに投入してくれた。 「……帰ってくる。お土産たくさん持ってさ。だから、」 ピラフが完成した。平皿に盛り付けテーブルに並べる。 「元気でいてね。」 久しぶりにエプロンを着た母に、そこからは台所を譲った。 そのとき、彼からもらった真珠のネックレスが胸元で揺れた。いつの間にかスキップをしていたのだと跳ね具合で気づかされた。 そして不思議な夜をおこした貝の押絵のハンカチも、ポケットで眠っていた。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加