1.己に克ち、礼に復る

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 彼の深い鼠色の瞳は、きっと僕を睨んでいる。射抜くような視線に背中が熱く、火傷しそうになった。 「おはようございます」  僕が周りに適当に挨拶を済ませる後ろで、彼が「おはようございまあす」と間延びした憎たらしい挨拶をした。  わざとだ。 「お、斎馬(さいば)! 今日はいつもより早いじゃないか!」 「なんすか、それ。いつも人の出社が遅いみたいな」 「いつも始業ギリギリに出社しているだろう」  彼が上司の谷山さんと軽口を叩き合う。僕は、それを聞きながら自分の席へ座った。  椅子がぎしりと音を立てる。  不快感に苛まれ、眉間の皺を濃くなった。そして、これから始まる会議で使う書類を睨みつけた。 ✳︎  会議も無事終わり、昼休み。  職場に残って昼食を摂る者もいるが、外に出て食べる者も少なくは無い。僕はその後者だった。  昼食は外に出て食べる派。  そして、決まって斎馬と食べる。特に彼と口約束をしている訳では無い。しかし、それはいつから始まったか分からない二人の日課だった。こういった日は彼との昼食はできれば避けたい。けれど、避けるという選択をしては彼の思う壺。それに、僕が何も言わずに会社を出たところで斎馬は、いつも後ろをついてくるのだ。  外に足を踏み入れると冷たい外気が頰を撫でた。 「今日は寒いですね」 「そうだね」    彼と行くお店はいつも同じ。  会社の目の前の信号を渡って左に曲がり、五分ばかり歩いた先のビルにある。  一階が定食屋になっているのだ。  煉瓦造りの赤茶けた外観に蔦が這っており、定食屋というより喫茶やカフェを思わす。  店の前に置いてあるイーゼルの黒板。今日の日替わり定食は焼き魚と書かれていた。 「今日の日替わりはシャケの塩焼きと野菜炒めの定食ですね」 「僕は日替わりにする。斎馬は?」 「唐揚げにしようかな」  店の中に入るとすでに結構な人数が入っており、僕と斎馬が座ると満席になった。  スタッフが水とお手拭きを持ってきてくれる。注文して待っていると斎馬が口を開いた。 「案外平気なもんなんですね」  見なくとも彼がどんな顔をしているか想像がつく。ニヒルに笑う彼が浮かんだ。  俺が誰かを抱いているところを見ても。  彼は更にいやらしく一言加えた。  昨日のことを言っているのだ。  ガヤガヤと昼食にやってきたサラリーマンたちの話し声で埋もれてしまうような言葉。  それでも、僕の耳は一字一句零してしまわぬように彼の言葉を拾い上げる。 「平気じゃなかったら、嬉しかった?」  本気では取り合わない。口元に弧を描き、袋に入ったお手拭きを取り出す。自分で言っておきながら、カラカラと喉が渇いた。
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