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「そうでしたね。行きます」
中嶋さん、北原が話しやすいと言っていたから、お前が行くと言ってくれて良かったよと日向野さんが少し安心したようにぼやき、鳴った携帯を取り出した。手を振ってじゃあと僕に伝え、忙しそうに社外に出た。
日向野さんは、とても良い上司だが、強面なのだ。黙っていると極道か何かだと間違われるほど目つきが悪い。そのせいで高校生の頃、先生に言いがかりをつけられたり、隣町の番長に喧嘩を売られたことがあったらしい。それ以来、黒いフレームの眼鏡をかけるようになったのだとか。
若い女性からは、話しかけにくいのも無理もない。日向野さんのことを知らないのなら尚更。けれど、それに反して日向野さんは、話せば表情も豊かできさくな人だ。そんな日向野さんの人柄を彼女が知る日はそう遠くはない。あんなに入りたての彼女のことを心配している上司は他にはいないのだから……。
携帯で思い出し、僕も先輩に連絡をいれる。携帯は、既に先輩からの通知を知らせていた。
「今日はとても遅くなるから、ご飯はいらない。先に寝ていてください」
「分かりました。僕も今日、急遽飲みになったので遅くなります」
先輩の“とても遅くなる”は、日付が変わる前後になることを指す。ご飯はいらないと言っていたが、綾瀬先輩のことだ。疲れた体では、外でなかなか食べる気になれずに帰ってくる。それにあの時間に開いている店といえば、飲み屋ぐらいだ。先輩は酒が飲めない。
ここ二週間近く、先輩は働き詰めで早く帰れておらず、休みもろくにとれていない。僕ともまともに会話すらしていない。
じゃあ、昨日の余ったワカメの味噌汁に梅のおにぎりでも用意しておこうかな。たまには良いだろう。
あまり心配していることが伝わると先輩には返ってそれが毒になってしまうのだ。それもあってか、綾瀬先輩は必ず僕に先に寝ていてくれと言う。だから、僕は言葉通りに受け取り、彼を待たないでいる。
無理してなければ、良い。
真っ暗な画面の先に居る先輩のことを考えて、気付けば僕は、息を重く吐き出していた。
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