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1.己に克ち、礼に復る
灰がかった空は、憂鬱に沈んでいる。
僕はくしゃみが出て、肩を震わせた。
今日は、午後からかなり寒くなるらしい。天気予報によると、まだ秋にも関わらず、初冬を思わせるほどの寒さになるそうだ。
少し厚めの上着を羽織ってきたのは間違いではなかった。
会社のビルは、十階建て。他の会社も階に分かれて入っている。時間が早いからか、エレベーターを待っている者は僕しかいない。入って来た人がいたとしても二階か三階の人間なのか、入口のすぐ右手の階段に吸い込まれていった。
「おはようございます」
声をかけられた。
この声の持ち主を僕はよく知っている。
僕は目を合わせず「おはよ」と、一階に向かって降下する数字の点灯を目でなぞりながら、短く返した。
「北原さん」
今日は、彼と僕の瞳が交わる事は無い。
昨日のようなことがあった次の日は、僕は彼と一切、目を合わせないと決めているのだ。
昨日のようなこととは、彼の遊びだ。
女だけで留まっているならまだしも彼は男にも手を出すから質が悪い。そして、これ見よがしに、性に奔放な彼は僕をいつも巻き込むのだ。
勘弁してほしい。
まもなくしてエレベーターがタイミングを見計らったようにやって来た。逃げるように乗り込むと、彼も僕の後ろを追いかけるように乗り込んだ。
六階のボタンを押し、彼から二、三歩離れて階に着くまでを待つ。年老いたここのエレベーターはゆっくりで、時間がかかる。
一階には、近々最新のものに変える工事を知らせる紙が貼られていた。僕は今すぐにでも変えて欲しかった。
箱の中に二人きり。
狭い密室では彼の存在を嫌でも強めてしまう。
彼のちょっとした動作で擦れる服の音さえすぐそこにある。朝一だからか、煙草の匂いが混ざっていない、彼がいつも衣服に付けている柑橘系の香りが鼻をかすめた。
それに酔いそうになりながら、途中の階で誰かが乗ってくることを願った。
けれど、誰かが乗ってくる気配は四階をさしかかってもない。
「北原さん」
諦めて項垂れていると痺れを切らした彼が苛立ちを含み、もう一度僕を呼ぶ。
思わず彼の方を見てしまいそうになり、鞄を持つ手に力がこもった。
「何? 今日の会議のことでも聞きたいの?」
「聞きたいことがあるのは、北原さんの方がじゃないんですか?」
「別に何も」
彼の煽りには応じてはならない。実のない会話に僕は足元に視線を落とし、意味もなく地面を左右に擦った。
着いて扉が開くなり僕は、彼を置いて事務所までさっさと向かった。
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