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ホテルの最上階のバーは静かな大人の雰囲気で、テーブルの向こうで微笑みを浮かべている彼氏には相応しいけれど、入社二年目のひよっこの私には今更ながら場違いに思えた。
つまりはそういうことだ。
大人の恋に憧れていた私は、彼の言動に何の疑問も持たないぐらい恋に溺れて背伸びしていた。
「流くん、ちょっとこっちに顔を近づけてくれる?」
内緒話をするみたいに前屈みになって、可愛くおねだりしてみる。
何しろテーブルが大きすぎて、向かい合わせに座っていても彼の頬に手が届かないのだ。
「ん? 何?」
優しそうな垂れ目が一層垂れて、彼が私に顔を寄せた。
と同時にこっちはスッと身体を引いて、渾身の力で右手をスイングさせる。
バチーンという漫画の効果音みたいな音がバーの壁や天井に反響して、客や店のスタッフたちの視線が一斉に私たちに降り注いできた。
それにしても痛い。
人の頬を平手打ちしたのは初めてだけれど、こんなに手が痛くなるとは思わなかった。
真っ赤になった自分の右手にフーッと息を吹きかけてから、正面の男を睨み上げる。
左頬に手を当て口と目を大きく開いたまま、呆気に取られている顔は何とも間抜けだ。
「あなた、名古屋に妻子がいるんですって? っていうか、神田流矢っていう名前も偽名なんでしょ? 違うって言うなら、今すぐ免許証見せて」
「柚子菜、急に何言ってるんだよ。妻子? んなもん、いるわけないじゃないか」
引き攣った笑顔で否定しながらも、彼が腰を横にずらしているのは逃げ出そうとしているからだろう。そうはさせじと、手首をガシッと掴んだ。
「私、あなたが既婚者だと知ってたら絶対に付き合わなかった。よくも騙してくれたわね!」
「おまえだって、いい思いしただろ?」
開き直った彼がニヤリと含み笑いを浮かべて手を握り返してきたので、慌てて振りほどいた。
「金輪際二度と会わないし、連絡もしてこないで」
「は? なんだよ、それ。俺が泣いて謝って縋りつくとでも思った? あのな、おまえの代わりなんかいくらでもいるんだよ、バーカ」
そんな捨て台詞を残して、彼氏だった男はバーからすたこらさっさと逃げていった。
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