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マンションの近く、いつもれなが使う電車の駅まで行けば休日のこともあり、私服で楽しそうに歩く人の波が出来ている。
いつもならばゾンビのようなサラリーマン、OLが沢山いるというのに、今日のこれを見ればどれだけ仕事が罪深きものなのか視覚的にも改めて理解出来る。
れなはそんな中で適当に街灯下に立ち、スマホを弄っている連中に紛れた。
誰かと待っているかのように、けれど時間を持て余しているように溜息をついて。
そうすれば簡単に頭のネジが弱い男が釣れる。
「あのー、ちょっといいかな?」
眼鏡を掛けた、ポロシャツ姿の男に声を掛けられた。
まるで絵に描いたような優男に見えるが、れなには性癖歪んでそうとしか思えない。
「ちょっと道に迷っちゃったみたいで、時間があったら教えて欲しいんだけど」
「どこですかー?」
「ここら辺」
男は手に持っていたスマホをれなに見せてくる。そこはどう考えてもホテル街――――ようするにラブホテルで、れなはそういう誘い方かい、と内心笑った。
「どうかな?」
「んー」
微笑んでいる男の仮面を剥がしたら、予想通り性格が曲がった姿が見られそうだ。
SMとかに興味はないが、今は付き合ってやってもいいかもしれない。
れなは悩むフリをし、少しだけ焦らすようにしながらスマホを取った。
「いいですよー」
「あ、場所分かるんで、スマホはもうしまってオッケーです」と言うと、「じゃあ遠慮無く」と素早く取り上げるようにしまい、まるでもう逃がさないとばかりにこちらの手を強く握って歩き出す。
意外と強引なそれだが、嫌がらずにそのまま握り返して少し急ぎ足でついて行く。
今からそんなにやる気満々で最後までテンションは保てるのだろうか。いや、こういう変態は頭らりってるから大丈夫なのか。
(ま、あたしもこいつと変わらない、らりってる奴ですけど)
もうどんなプレイでもしてやんよよどこか投げやりに思えば、「あの、すみません」と後ろから声を掛けられた。
聞いたことのある声に、ピタリと足を止める。それに引っ張られるように目の前の男も止まり「はい?」と振り返った。
「彼女とどこかに行くんですか?」
あぁ、やっぱりこの声はあの人だと、溜息というより、なぜか安堵の息が勝手に零れ落ちた。
「ええ、そうですけど。何かありましたか?」
男は笑顔を貼り付かせて聞き返すが、そこには若干の怒りが含まれているのがれなにも分かる。しかし彼は臆することもなく「俺の間違えじゃなければ」と言った。
「スマホを見せてから強引にどこかへ連れて行こうとしているように見えたんですけど」
「別に強引にじゃないですよ。彼女にスマホを見せるのはおかしなことですか? というか、一体何なんですか?」
「俺は彼女の知り合いです」
「ね?」とこちらの肩をトントンと軽く叩く。それにゆっくり振り返れば、この男よりも柔らかい、本物の笑みを浮かべている狩野がそこにいた。
「そちらの彼氏さんは彼女の名前をご存じで?」
「~~~~っ、あぁもう面倒くせぇな! 興醒めだっつの!」
「おわっ」
掴まれていた手を引っ張り、狩野の方に放り捨てられる。転びそうになるも、狩野が胸板でキャッチしてくれた。そしてその男はポケットに手を突っ込みながらぶつぶつ文句を言いながら消えていった。
「大丈夫ですか、月城さん」
「・・・・・・・・・・・・」
抱きしめられたまま聞かれ、れなは少しだけ目を閉じて息を吸う。
あのラブホテルでは同じシャンプーの匂いがしたけれど、今日は彼自身の香りなのか、どこか清涼感のある匂いがした。
「あの、月城さん?」
「・・・・・・なんでここにいんの」
まるで味わうかのように目を閉じていたのがバレていないことを良いことに、れなは不機嫌な声で聞く。
「いや、ちょっと出掛けようと思ったんで」
「もしかして最寄り駅?」
「はい」
「・・・・・・あっそ」
れなはそう言い、ドンと胸板を突き飛ばした。
しかし彼はよろめくだけで、尻餅をついたりはしない。
「なに邪魔してんの」
「え?」
狩野は突き飛ばしたれなを怒ることもなく、きょとんと首を傾けた。
「だから、あたしこれからあの人とセックスする予定だったんだけど」
苛立ちの声をわざと作りそう言えば、狩野は「えぇ。そうだと思ったんですけど」と、困ったように頬を掻く。
「なんか嫌そうな顔をしていたんで、つい声を掛けてしまいました」
「――――」
驚きに瞠目する。
そんな顔をしたつもりはない。仕方なしだが、付き合ってやるかと承諾した、つまりは合意の上でのことだ。
それなのに、目の前にいる人は嫌そうな顔をしていたと言う。
「・・・・・・・・・・・・」
「もしかして俺の勘違いでした?」
こちらの様子に慌て出す狩野は「すみません!」と謝り、れなに背を向けた。そちらはあの男が消えていった方向だ。
「俺、今からさっきの人を探して来ます!」
「いいよ別に。バカじゃないの」
れなは口元に弧を作って、深呼吸をする。
(助けられたって形なのかな)
別にレイプをされるわけではなかったのだから、余計なお世話だったという一言で片付けることも出来るけれど、れなはそういうことじゃないよな、と首を横に振った。
「月城さん?」
「・・・・・・何でも無い」
しかしお礼を言うのもなにか違う。どうするのが、なんと声を掛けるのが一番自分らしく、ベストなのか。
考えた結果は、呆れるほど自分らしい言葉だった。
「代わりにあんた、相手して」
「はい?」
「今日のセックスする相手を奪ったんだから、責任取りなさいよ」
そう言い、狩野の腕に絡みついた。それだけで彼は「ちょ、ちょっと」と焦るのだから、可愛いものだ。
「本気ですか?」
「あったりまえ」
深く頷き、れなは先ほど行こうとしていたラブホテルへと歩き出そうとするが、それを阻止するように狩野は巻き付いているれなの手を引っ張り、彼の方が歩き出した。
「分かりました。でも今日はこっちにしましょう」
「・・・・・・は?」
向かう先は駅の隣にある高いビル。それはどこにでもあるビジネスホテルで、れなはそれを見上げて「はっ!?」と改めて驚いた。
「ちょっ、壁薄いって! 苦情とかあたし嫌なんだけど!」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないんだってば!」
自ら巻き付けた腕を解けば、そのまま手を繋がれる。いわゆる恋人繋ぎなのだが、こちらとしては拘束されているにすぎない。
「ちょっと! 課長!」
「・・・・・・あの」
歩みは止めることなく、どこか居心地が悪そうに少しだけ振り向いて言った。
「プライベートで課長はやめてください」
「ならビジネスホテルはやめて」
「・・・・・・ならまぁ、今日は課長で」
「どんだけビジネスホテルに固執してんの!?」
どれだけ嫌がっても彼は歩みを止めることなく、結局ビジネスホテルに二人で入ることになった。
「最近出張とかが無いので、ビジネスホテルは久しぶりです」
「綺麗になったもんですね」と呑気に言う狩野に、れなはベッドに座って足を組んで怒りを露わにした。
「苦情の対応はそっちがしてよね」
「はいはい」
まるで子供をあしらうかのような、あのラブホテルの夜を思い出すような言い方に更にれなはムッとする。しかしそれを気にすることなく狩野はれなの隣に座り、なんてことなく聞いてきた。
「なにか嫌なこと、ありました?」
「・・・・・・え?」
一瞬意味が分からず、隣にいる狩野を見る。すると心配そうにこちらを覗く瞳とぶつかった。
「いえ、さっきの人とのことも、本当に楽しそうに歩いていたなら声を掛けなかったのですが、どこか不安げと言いますか、苦しげな顔をしていたので」
「そ、んな顔、してないし」
「それならまぁ、いいですけど」
狩野は苦笑し、また「すみません」と謝った。
そんな彼を見つめながら、「ねぇ」と声を掛ける。
「セックスは?」
「はは、本当に月城さんはセックスが好きですね」
でも、と狩尾は続けた。
「今日もしないです」
「・・・・・・・・・・・・」
れなは驚きもせず、その言葉を受け止める。
なんとなくそうなるような気もしていた。だからこそラブホテルでその気にさせたかったのに。
「なんで?」
「うーん、そうですね」
少し悩んでから、狩野はぽんと手をれなの頭に置いた。そしてゆっくりと撫でてくれる。
「なんか月城さんが辛そうだから、ですかね」
自分でしたときとは比べものにならないほど気持ちが良い。
まるでその手に縋るよう、猫みたいに顎を少しだけ持ち上げれば親指で前髪を退かしつつ、額も親指で撫でてくれる。
「こんなあたしによく優しく出来るね」
勝手に口から滑り出した自嘲的な言葉。しかしその言葉は本心だ。
「こんな女、優しくする価値も無いでしょ。男遊びばっかりしててさ」
「・・・・・・好きな人に優しく接するのに価値が必要ですか?」
頭を撫でたまま狩野は柔らかい声音で、まるで母親が子供に教えるように言う。
「別に好きな人じゃなくても、人の価値とか考えません。価値をつけたところで何も変わりませんしね」
そんなこと気にしなくていいのだ、と少し怒るようにトントンと親指で額をノックされた。
「月城さん、仕事嫌いですよね」
突然話題が変わり、驚いたれなは素直に「え、はい」と頷けば、「素直でよろしい」と笑われた
「それでもちゃんと仕事をこなして、周りのフォローもさりげなくやってる」
「・・・・・・・・・・・・」
誰にもバレないよう、その人の仕事が失敗しないように影で動いていることがどうやら課長にはバレていたらしい。
だがそれは自分にも面倒事が降りかからないようにだ。それでも、彼は褒めてくれる。
「お礼や見返りもなくそういうことが出来るのってすごいなって実は前から思っていて、ずっと貴方のことが気になっていたんです。そんな人にまさかセックスに誘われ、童貞を卒業させてもらえるなんて、俺は幸せ者ですね」
ははは、と軽く笑い、頭を撫でていた手が今度は頬を撫でる。
まるで風のように柔らかくて、でもそれ以上に気持ちよくて何かが胸に満ちていく。
「俺が初めてだって言った時も、貴方は俺をバカにしなかった。明るく返してくれた。俺自身のことを受け止めてくれたんです」
「他の女だってあたしと同じことをするし、むしろもっと気持ちいい筆下ろしを優しくしてくれたかも」
「どうしてそんな卑屈なことばかり言うんですか」
親指が唇をなぞる。その感触に少しだけ口を開けば目の前の男が喉を動かし、それからゆっくりと重ね合わせた。
ただ触れ合わせるだけのキス。本当に子供みたいと内心で小さく笑って、こちらから舌を少しだけ差し込んでみる。それにビクリと驚いたのは彼の方で、それでもすぐに舌を絡めて互いの唾液を交換しあう。
頬を撫でていた手が顎まで動き、くすぐるかのよに人差し指一本で撫でられて、れなは「ん」と小さく声を漏らした。
浩斗の時は当たり前に喘ぐのに、ここがビジネスホテルのせいか、それとも相手が狩野だからか、すごく恥ずかしい気がした。
れなは両手を持ち上げ、まるで縋るように彼の胸元に手を置いてしまう。それもまた恥ずかしくて、一緒に息継ぎをした時に、顔を逸らした。
妙に息が切れ、ドキドキと脈が強く打っている。
「・・・・・・俺は他の女性を知らないです。確かに優しく接してくれる人は他にもいるかもしれない。でも、俺は月城さんに優しくしてもらったんです」
逃げた顔、顎を優しく掴んでゆっくりと自分の方を向かせる。無理矢理ならば抵抗出来るのに、こうも優しくされたら出来るものも出来ないではないか。
「月城さんが俺を受け止めてくれた。なら俺だって月城さんの全部を受け止めるよ」
「・・・・・・狩野さん」
「あ、呼んでくれた」
嬉しそうに頬を染め、笑う。そしてまた唇を重ねた。
喜びを表現するかのようにれなの唇を食み、舌に吸い付く。
「んっ」
ぴくっと肩を揺らせば、彼はもう片方の手でれなの手を包み込み、それから自分の頬へと導いた。
そのままれなは狩野の頬を撫で、狩野ももう片方の手で頬を撫でる――――まるで互いを求め合って、否、愛し合ってキスをしているみたいだ。
(やだ、こんなの)
手のひらに吸い付く頬をゆっくりと撫でれば、彼も真似するようにれなを撫で、そしてキスを深くする。
服は着たまま、二人で裸で横になっているわけでもない。それなのに柔らかいどこか深いところに触れられている気がする。
その感覚がくすぐったくて、でももっと欲しくて、でもこれ以上じゃなくて、このままぬるま湯につかるような感覚を味わいたい。
でもそんな自分の感情が酷く怖い。
「ふ、ぁ、ン」
これが、愛されてるってことなのならば、なんて恐ろしいものなのだろう。
頭がもっとバカになりそうで、自分の身体が溶けてしまいそうだ。
狩野の頬を撫でていた手を少し下ろし、肩で拳にする。するとこちらの気持ちを察したかのように彼はキスを止めてくれる。
「・・・・・・・・・・・・」
近いところで、『どうしたの?』と聞いている。それにれなは少し迷うように視線を泳がせ、それでも素直に口にした。
「愛、とか、分かんない・・・・・・」
迷子の子供が自分の家がどこにあるのか分からないと言っているかのように、その声は頼りない。
狩野は再度キスをするのではなく、額をコツンとぶつけ合って言葉を返した。
「ゆっくり知ればいいんじゃないかな。急ぐ必要もないし、月城さんのペースで知っていけばいい」
「ん」
頷くように自分からも少し体重を掛けて、額をぶつけ合う。
(この人はなんて優しい人なんだろう)
今までこんなに甘やかすようなキスをしてくれた人はいただろうか。
身体を求めるだけじゃない。好きだって気持ちを持って触れて、優しく撫でてくれる。
快楽を欲しているわけじゃない。きっと、さっきみたいにとろけるような、愛し合っている時間が欲しいんだ。
だから無理にセックスをしようとしないのかもしれない。
(あたし、この人のことを愛せたら幸せなのかな)
溜息みたいな息が出る。けれど半分吐息にも近くて、この優しさを裏切るように欲情している自分もいる。いまはこんな時間を過ごしていたいのに。
すると狩野は額を離し、「月城さん」と両手を握った。
「このあと、映画でも行きませんか?」
その提案にれなはパチクリと瞬きをする。
「あっ、でもその、その前に俺、トイレに行ってきます」
恥ずかしそうに付け足した狩野に、彼も自分と同じように欲情していることに気付いた。しかしそれでも抱こうとしない彼は、修行僧か何かなのかと思うことも無い。
れなは小さく噴き出し、きっといつもならば『あたしで発散すればいいじゃん』と言うところだが、今はやっぱりぬるま湯に浸かっていたいから。
「分かった。待ってるから、映画、行こ?」
少し恥ずかしくて、でもセックスじゃなくてこちらの気持ちを慮ってのそれならば嬉しくて、視線を逸らしながらも微笑めば、狩野は「ありがとう」と最後に一度、頭を撫でてくれた。
狩野がトイレから出た後は、彼の方が恥ずかしそうにしていて笑ってしまったのだけれど。
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