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②日常
「おはようございます」
「おはようございます」
狩野課長の挨拶に続いて、部下が一礼付きで返す。
昨日あったことの連絡と本日の予定。それを淡々と狩野は書類を手にしながら述べていく。
「――――の会議は九階で行われます。他の企業の人とすれ違ったら挨拶を忘れないようにしてください」
(いやいや、企業の人の顔、全員覚えてねぇっての)
大真面目に言う狩野にれなは内心で突っ込みを入れる。他の同僚からも小さな溜息が聞こえた。しかし狩野は聞こえていないのか分からないが、そのまま朝礼を続ける。
(まぁ、溜息くらいで心折れてたらその若さで課長なんて出来ないか)
あくびをかみ殺しながら思う。
狩野は30歳という若さで課長の席についている。
一体どんなコネを使ったんだと男性社員は睨付け、どんなコネを使えるのかしらと女性社員は舌なめずりをした。
れなは別にその女性陣と同じように玉の輿を狙って寝たわけではない。ただ単に仕事を少しでも甘く見てもらえないかとごますりをしたようなものだ。
この男は本当に仕事バカのバカで、営業成績、他企業に渡すパンフレットの制作内容、その他書類一枚一枚をとにかく口うるさく確認し、赤ペンを入れていく。
だが別に間違ったことは言っていない。だからこそ質が悪い。
正しいが故に課長が狩野に替わってから営業成績は伸びたし、新たに契約を取り付けられたところもある。
しかし悲しいかな安い給料は上がることなく、ならば少しくらい自分に降りかかる仕事量を減らしたいところだろう。
普通に仕事していれば簡単にキャリアウーマンとか出来そうじゃんとか新卒の時は思ったけれど、なかなか現実はそうもいかない。
(だって仕事嫌いだし)
れなは社訓を唱和しながら落ちてきそうな瞼を何度かパチパチさせる。
未だに暗記できない社訓だが、たとえ定年までここで働くとしても覚えたくもないと思っている。
しかし周りから目をつけられたら厄介だと、染めた髪は後ろでクルリと丸めてバンスクリップで留め、ネイルも目立たないピンク。
スカートは履かないで黒か茶色のパンツにしている。
そのおかげか会社では大した問題も無く過ごしていた――――のだが。
(来たよ、その目)
それぞれが自席に座るのを狩野はいつも見送ってから席につく。その視線がれなに向いた。
何かを求めるような、探るような、そんな視線が痛いほど感じる。
仕事を振ってくるならばまだしも、次のセックスの機会を待っているだなんて本当にこいつと寝るんじゃなかったと溜息をついた。
高い技量を仕事に要求する狩野に少しでも採点で丸をもらえる幅を広くしてもらおうと思い、わざと彼と一緒に残業することにしたが、どうせ断られるだろうとれなは思っていた。
あれほどの仕事バカなのだ。部下と身体を重ねる、しかも全然喋ったことの無い相手とそんな行為をする人には全く見えないし、想像出来ない。
けれど現実は「いいですよ」と簡単な一言だった。
「――――え?」
「俺も腹減りましたし、適当に食べて行きましょう」
「いや、あの、私、ぱっとホテルでストレス発散しませんかって聞いたんですけど」
「えぇ。ですから、どこかで一杯やってからホテルに行きましょう」
きっちりかっちりそう返事をし、開いていたノートパソコンを閉じた。
(え、マジか。こんなあっさり? まさかこいつも遊び人?)
人は見た目によらねぇな、なんて思っていたがこれもまたれなの大外れ。
居酒屋で適当に酒を呑むと、最初は互いに何の話をしたもんかと微妙な空気感が漂っていたそれが一気に砕けた。
「えっ、狩野課長、彼女いないんですか!? その若さで出世して見た目だって男前なのに? 勿体なくないです?」
「いやいや、俺は人付き合いとか下手くそでダメなんですよ」
「それでどうして課長になれたんですか?」
「そりゃ業績と正論でねじ伏せて」
至極当たり前に言う狩野に、ワンテンポ遅れてかられなは大笑いした。
「そのねじ伏せが出来ない男がごまんといるのに!」
「ま、運も味方してくれたんでしょうね」
ぐいとビールを呷る。その姿に案外とっつきやすい人なのかもしれないと思ったのだが、問題はここからだった。
「・・・・・・ラブホ、ですか?」
「え? はい」
居酒屋から出ていざホテルへとれなが歩き出すと、彼は「ホテルこっちですよ」と酔っ払った赤い顔で言ったのだ。
それにれなはパチパチと瞬きをして、彼の指した先を見るとよく駅前にあるビジネスホテルがあった。
ビジネスホテルは確かに安いけれど、壁が薄い。ならば少し金を出してラブホテルの方がいいだろう。
自身の経験上、「ラブホにしましょう」と言ったのだが、その瞬間困惑に顔を染めた。
「・・・・・・・・・・・・」
「ラブホ、嫌いなタイプですか?」
「いえ、えっと」
狩野は頬を掻きながら言った。
「俺、ラブホテルって入ったことなくて・・・・・・」
「うぇ! マジですか! なら尚更ラブホにしましょうよ!」
れなは狩野の手を取り、歩き出す。
「まぁ、ホテルの方が清潔感があっていいっていう人いますよねー。あたしはそういうの全然平気ってか、ラブホも楽しいですよ? 道具とかも色々あるし!」
「そう、ですか」
どこかぎこちない動作でついてくる狩野に、れなはどうしたのか聞くことはせずそのままいつも使うラブホテルへと足を踏み入れた。この時に『どうしたんですか?』の一言でも言っておけば良かったとテーブルを殴っても後の祭り。
適当に選んだ先は天井が鏡になっている部屋で、ラブホ初心者の人に引かれないようなところを選んだ。
しかしそれを見た瞬間、彼はぎょっとして、それから俯きながら白状した。
「すみません、月城さん」
「あ、イヤでした?」
「いえ! そういうことではなく・・・・・・」
あの真っ赤な顔で言った狩野と課長として立つ狩野が同一人物だとは思えないくらいだった。
「俺、童貞なんです」
「・・・・・・・・・・・・」
笑うとか、そういう次元は超えていた。
その歳で童貞とは、どういう人生を送ってきたのだろうかと、れなは宇宙を見ている気がした。
お前の煩悩はどこにある。業績と正論で叩き潰されたか? ちっとくらい欲求に素直になれば――――
「でもっ、あのっ、俺でよければですけど」
――――あ、いま欲求に素直になったんですね!?
れなはしばらく真っ赤な狩野を見つめてから、「まぁ、いいですよ」とコートを脱いだ。
「初めてなんて誰でもあるし、その初めてをどこで使うかとかもその人次第ですし。だから別に私は気にしません」
「すみません・・・・・・」
「なんで謝るんですか」
れなはコートを腕に掛けて、彼の頬をもう片方の手で撫でる。
「あたしで派手に童貞を散らしてやりましょうよ」
そのままゆっくりと唇を重ねれば、それだけで緊張しているのが伝わり、こりゃ赤ずきんちゃんだなと苦笑した。
勿論、狼は自分だ。
(ま、今日はお姉さんぶって筆下ろしといきますかね)
固まっている唇を開けるよう、くすぐるように舌を這わせながら、彼のネクタイを解いていった。
結論から言えば、悪くなかった。というか、れなからしたらその手のプレイのような感覚で楽しめた。
おっかなびっくり進める男が、気持ちよさに溺れて腰を振る様に、やはりこいつも男かと鼻で笑えた。
やり方が分かってからはガキのようにガッツかれて正直相手をするのが疲れたけれど、でもまぁ悪くなかったというのに、だ。
それから狩野は、次はいつ誘ってもらえるだろう、という視線を送ってくるようになった。
筆下ろしを丁寧にしてやったのに、結局目的の仕事の件も全く甘くなることなく、ただただ甘える赤ん坊のように物欲しそうな目を向けるだけ。
男なら誘ってみろと殴りたくなってくる。
(いや、もういいわ)
こいつとはもう寝ない。そう思いながら今日も事務処理をミスが無いように手早く済ませていった。
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