ラストライブ

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スポットライトの消えた真っ暗なステージ。 誰もいなくなったライブハウス。 男はライブハウスのオーナーに無理を言って、朝までここで過ごさせてもらうことになっていた。 「いいよ。君が気のすむようにしたらいい。  10年間。お疲れ様」 ステージから見る光景は男の心と同じがらんどうだった。 田舎からミュージシャンを夢見て走り続けた10年間。 今日の引退ライブには、多くのファンが男の引退を惜しみ、悲しみ、暖かな選別を送り。 そして、誰一人として引き止めなかった。 「結局、俺のミュージシャンとしての価値なんてそんなもんか」 男は自嘲する。 手に持ったギターは、高校時代にバイトを掛け持ちして買って上京してからも、ずっと使い続けてきたものだった。 このギターを弾かなかった日はない。 それこそ男の10年間の血と汗と脂が染みついた分身ともいえるものだった。 「さよならだ」 ゆっくりとギターを男は振り上げる。 小刻みに腕が震えるのは、ギターの重みではない。 明日の今は、男は実家に戻っている。 地元の旧友が雇ってくれるのだという。 高校のころから家業を手伝っていた旧友は、現在は家庭を持ち、社長として地域に根を下ろしてしっかりと生計を立てている。 根無し草の男とは対照的だった。 そして、男はこれから旧友のようにならなくてはいけない。 そのための決別は、けじめは、必要だった。 「お待ちください!」 男がギターを、今、まさに、振り下ろそうとした瞬間のことだった。 ライブハウスに声が響いた。 「だれだ?」 男は周囲を見るが、人影一つ見当たらない。 気のせいかと頭を振って、再度ギターを持ち上げる。 「お待ちください!」 もう一度声がした。 今度は確かに聞こえた。 聞き間違えではない。 「こちらでございます」 声のほうを見るが、やはり誰もいない。 「どこだ。いったい誰だ」 「こちらでございます。もっと下のほうを見てください」 視線を下げると、一匹のネズミがいた。 「もしかして、さっき俺を止めたのはお前か」 「そうでございます」 「なぜネズミなんぞが俺を止める」 「それは、私が、いえ、私たちがあなた様のふぁんだからでございます」 そこからネズミが話したのは荒唐無稽な話だった。 なんでも、ネズミが難産で苦しんでいた時男の歌を聴くとすっと体が軽くなったのだという。 また、子供が体調を崩した時も男の歌を聴くとすぐに体調を持ち直したという。 さらには、ケンカをしていたネズミ同士が男の歌を聴いて争いをやめることもあったのだという。 「まるでセロ弾きのゴーシュだ」 男は吐き捨てるように言った。 「俺の歌が、お前たちにとって医者替わりだったり、けんかの仲裁の道具だったり。  まあ、大変に便利だったのはわかったよ。  10年間の頑張りが全くの無駄じゃなかったことが分かって、まあ、悪くない気分だ」 そこまで言って、男は目の前の小さなファンを見つめる。 「けど、悪いな。俺にも生活があるんだ。  いくらネズミに認められても、人間に認められなけりゃ生活はしていけない」 男の言葉にネズミはうなずいた。 「あなた様のいうことはもっともでございます。  私共にあなた様を引き止める権利も財力も権力も何一つありはしません」 ネズミの言葉に男はほんの少しの失望を感じていた。 ネズミすらも引き止めはしないのかと。 「ただ、ただ。一曲だけ、いえ、ワンフレーズだけでもいいのです。  私共のために歌っていただけないでしょうか。  それだけあれば、私共は人間様よりも短い寿命を幸せな気持ちで全うできるのです」 深々と頭を下げるネズミ。 その姿に男は心が動かされるのを感じた。 このネズミは男の歌を純粋に愛し、欲し、けれど男のことを思っている。 そして、それは、もしかしたら今日引退ライブに来てくれいた観客たちもそうだったのかもしれない。 「歌ってあげなさい」 気づくとライブハウスのオーナーが立っていた。 「けど、オーナー。こんな深夜に。いくらここがライブハウスだからって」 「構わない。歌ってあげなさい。責任は私が取ろう」 そう言って、オーナーは客席の奥の壁に背を預けた。 思えば上京してからの10年間。 オーナーはずっとああして、男の曲を聞いてくれていた。 「わかりました」 男が再度ギターを肩にかけた。 ステージに上る。 「ネズミども!良く聞きやがれ!これが本当に本当に最後のラストステージだあ!」 男が歌い始める。 目を輝かせたネズミが、体でリズムをとる。 そして、ネズミの数が一匹また一匹と、鼠算式に増えていく。 ライブハウスがネズミであふれかえる。 地響きが、轟音が、ライブハウスに、いや、町に満ちる。 町中のネズミたちが男の歌引き寄せられ、別れを惜しみライブハウスに詰めかけた。 下水道の中を、ビルの隙間を、大通りをネズミの大群が駆け抜ける。 「みんなあああああああああああああああああああああああああああああああ!  ありがとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」 男が最後に絶叫し、ギターをステージにたたきつけた。 デュウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ 夜の街にネズミたちの声が響きわたる。 次の日の朝。 男はすっきりとした顔で電車に乗り、田舎へと帰っていった。 ネズミたちも各々の場所へと散り散りに散っていった。 まるで、昨夜の熱狂が夢であったかのような静かな朝。 大量のネズミが発生したライブハウスは保健所の指導により営業停止となった。
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