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会話は思いの他盛り上がった、ふと拍子で本の話題になったのがきっかけだった。
彼は読書家だった、しかもジャンルに関係ないようで、どんな作家でも話が合った。
時間が経つもの忘れて話していると、
「まもなく終電ですよ」
バーテンダーがおしぼりを変えながら教えてくれた、スマートフォンで時刻を確認すれば零時を過ぎようとしている。一番の最寄り駅はみなとみらい線だ、JRの京浜東北線の石川町駅まで行くにしても、もう店は出ないと間に合わない。
「あー大丈夫です、タクシーで帰ります」
彼はそう言ってハイボールをもう一杯頼む。
「家は近いんですか?」
少なくとも気安くタクシーで帰れるほどの距離なのか。
「うーん、近いというほど近くはないけど。時間を気にせずあなたと話しているほうが楽しいかな」
彼の淋しくも見える笑みに気を取られた。
「──奥様が待っていらっしゃるんじゃ?」
私の質問にそれまで饒舌だった彼からの返答が滞った、それだけで十分答えだったが。
「……今日は、後輩の結婚式でさぁ……」
後輩か、会社か学生時代なのか──彼は小さな声で語り出す、私はそれを止めなかった。
「幸せそうな二人見て、俺もこんな時期があったよなぁなんて思ったら、なんかさぁ……結婚ってなんなんだろうなあ……なんてさ」
ため息一つ、ハイボールを飲み干し、またため息──相当うまくいっていないようだ。
「いつからこんなんなったんだろうな……一つ屋根の下に住んでるのに会話もなく──嫌いなわけじゃない、別れたいわけじゃない、なのに、そばにいると息苦しい」
盛大にため息を吐いてカウンターに顔を伏せてしまう。
「あなたに何が分かるって言われる、俺も精一杯妻を分かる努力はしてるんだけど、何が足りないのか。じゃあお前に俺の何が分かってるんだと、喉の奥まで出かかって飲み込む、子どもの前で喧嘩はしたくないし。好きなことをすればいいとお金も十分上げているつもりだけど」
再度ため息を吐いた時、彼の手の先に新しいグラスが置かれた。気配に気づき顔を上げた彼はもう晴れやかな顔をしていた。
「ごめんごめん、こんないい夜に愚痴なんてよくないな。えっと何の話してたっけ、そうそう葉山修一の作品だ!」
そう言って彼はまた作品について熱く語り出した。
店の閉店時間は一応26時となっている、それでも無理矢理追い出されることはないが、やんわりとその時間を告げられ、私たちは店を後にした。
「えっとタクシーはっと……近くに乗り場はあったよね、こんな時間じゃ待機してないか。すぐ行けば大きな通りだから、そこで拾うか」
「うち、来るか?」
左右どちらに行こうかと悩む素振りの彼に言えば、彼は大きな目で私を見下ろした。
「え、でも」
「すぐそこで独り暮らしをしている。あと少し待てば始発だ、既にこんな時間なら始発で帰っても問題ないのでは」
「それは──」
ほんの数秒戸惑った様子だったけれど、私が構わず歩き出すと彼もついてきた。徒歩で数分もかからない、代官坂下にある我が家が見えてくる。
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