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いけないと判っている、彼は結婚している。でもその確認もしなかったのは知らずにいれば済むことだと思ったから──過ちに身を投じてしまいたいと思ったのは、酔っているからなのか、恋に落ちてしまったからなのか。
彼の名前も、どこに住んでいるかも知らないまま私は抱かれた。彼も私の名前など聞かなかった。互いに一夜限りの関係と割り切っていたのだ。酒の酔いと相まって、久々の快楽はこの上なく私を満たした。
無我夢中で求め合い、そして始発から2本目の電車に乗って彼は帰って行った、互いにさよならと挨拶を交わしただけの別れだった。
もう会うことはないだろう。それでも私には十分だった。
☆
五日後の昼下がり、ドアがノックされ私は玄関へ向かう。
「はい」
人影はあるのに返答はなかった、はてと思っていると。
「あの──すみません」
声にはっとした、先日たった一夜の過ちを犯した相手だ。
「──はい」
ドアは開けずに返事をした──そうか、彼は私の居場所を知っているのだ、会おうと思えば会いに来られる、何故来たのか。
「あの、あの、すみません、こんなことはいけないと判ってます、それでもあなたのことが忘れられなくて……! すみません、せめて顔だけでも見せてください」
深呼吸をした、今すぐ開けてしまいたい──彼に求められて嬉しくないわけがない。
「ダメだ、私はあの日限りのつもりだった、帰ってくれ」
答えれば、ドンと木製のドアが鳴る。
「一目会いたいと来ました……お願いです、ほんの数秒でいいので……!」
言われてわずかな間悩んでから私は錠を外していた、ドアチェーンなどない、拳一個分のみドアを開き彼を見上げた。彼はほっとした顔で私を見つめる──やめてくれ、そんな顔を見せるのは。
「──満足か」
ドアを閉めようとしたが、彼の手に止められてしまう。
「──あの」
できるだけ睨みつけ威嚇するように言ったが、彼は溶けるような笑顔を見せる。
「──会いたかった」
熱のこもった声に私の心の鎧が外れて行く。彼がドアを開けるのに従っていた。体を滑り込ませるようにして彼が室内に入ってくる、出て行ってとは言えなかった。
私も、彼を求めている──会えて嬉しかった。
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