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☆
それから数日、彼がやってきた。
私はドアを開けずに話しかける、もちろん妊娠の事実を伝えるつもりなはい。
「もう来ないでくれ」
息を呑む気配を感じた。
「え、急に、どうして……」
「あなたに飽きた、それだけだ」
嘘をついた。もっとはっきりと、不倫だ浮気だはよくないと言ってしまえばすっきりするだろうに、この期に及んでも言えなかった。私はなにも知らずに関係を築いていたのだと思い込みたいのだ。
「今日までありがとう、楽しかったよ。あなたならすぐに次の女性がみつかるだろう」
声も姿も見えないのに、なぜか泣き出しそうな彼を思い浮かべたのは私の妄想か。
「俺は、遊びであなたに会いに来ていたわけじゃ──!」
ドンとドアが殴られた、判っている、あなたは家庭がありながら私を愛してくれた。
「私は遊びだよ。男がいないと生活の潤いがなくてね。もう新しい男がいるんだ、早く戻って来いと怒っているから、もう行くぞ」
「いるなら、俺が直接話を──!」
「迷惑だ」
彼が唇を噛んだような気がした。
「あなたとはそんな風に引き留められるような関係じゃない。うっとうしいだけだ──早く帰ってくれ」
最後にドンとドアが殴られた、少ししてから遠ざかる足音が聞こえてくる──あなたはもう来ない、熱くたくましい腕に抱かれることもない──懐かしさに涙があふれた、こんなに涙がとめどなく流れるのは子供の頃以来だろうと思う。
人をこんなにも愛おしいと思ったのはずいぶん久々のこと。久々に恋に落ちれば、既婚者などとどうしもようない相手で、こんな結末だとは自分でも呆れる。
嗚咽は押し殺した、彼が戻ってくるかもしれないから。
大丈夫、私はひとりじゃない、あなたがくれた命があるから、強く生きられる。
ありがとう、心の奥底で何度も唱えた。これでも私は、自分の幸せよりあなたの幸せを願っているんだ。
後ろ指を指される生活は、あなただって望んでいないだろう?
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