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☆
それでも彼は訪ねてきた、あからさまでも居留守にする。もう会う必要はない人だ。
だが、ついに妊娠がバレてしまった。
買い物へ行こうと玄関を出ると敷地の外から私を見ていたのだ、既に臨月に近い、隠しようがなかった。すぐに取って返したが玄関が激しく叩かれる。
「そういう事だったのか! 君は俺の──!」
「心配するな」
言えば彼は沈黙した。
「この子は私一人で育てる、誰の手も借りない」
「そんなこと言うな……! 俺の責任でもある……! 認知も養育費も払うから……!」
バカなことを。家庭を壊したいのか。
「あなたに責任などない、私は勝手に身ごもり、勝手に産むんだ」
「そんなことない、俺は君を──」
何を言うつもりだ、わずかにほころぶ心を私は懸命にねじ伏せる。
「帰ってくれ。一人にしておいて」
玄関の外で彼はぶつぶつと何かをつぶやいていた、結婚だ養育費だと言っていたようだが、どれも私には用のないものだ。
しばらくドアのノックが続いた、彼の会いたいと言う嘆願が聞こえる。
全てを無視して私はドアを背に立っていた、そこから動けなかったことは許してほしい。
やがて去る気配に涙が落ちた、自分がこんなにも弱い人間だったと初めて知った。
☆
ほどなくして、出版社から送られてきたファンレターの山にそれを見つけた。
【初めてお便りさせていただきます。
『火の中』を拝読しました、大変興味深い内容で手に汗握り……】
著書の名からだろうか、もしかして、と思った。
そして最後は新作を楽しみにしていると締めくくられていたが、そこには主人公の姓が書かれていた──担当しか知らない名だ。
それは彼が入れたサイン──封筒の裏を確認していた、手書きで住所と名前が書かれている。嘘を記していなければ、初めて彼の名と住んでいる場所を知ったことになる、顔が緩んでしまった。
ファンレターの返信は、いつもは年賀状を出すことで変えているが、今は便せんとしまい込んでいた万年筆を取り出した。封筒の裏にはペンネームを書き、住所はいつもならば出版社の判を押してもらうのだが、今回は自宅の住所を書き自ら投函していた。
数日すると返信があった、もちろん我が家に直接届いたものだ。それにも本の感想が書かれていた。私はありがとうと返事を送る。
そうして文通が始まった、もっとも本の感想とその礼程度のやり取りだが、私はそれを心待ちにしていた。
彼も楽しんでくれているだろうか。
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