幸不幸のまじない

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「ごめんね、美月」  美月は私の名前でした。  もうしばらく、それこそ祖母にすらずっと呼ばれていない、私の下の名前。どこからか呼ばれた声に、きょろきょろと辺りを見渡すけれど、そこにはユキちゃんしかいませんでした。 「本当は、ずっとそばに居てあげたかった」 「…ユキちゃん」 「ちゃんと人の姿のまま、ずっとそばにいてあげられていたら」  ユキちゃんの後ろに見える丸い月は、不思議なことに、私の目にはとても大きく見えていました。まるでユキちゃんを飲み込むくらいに。この家を丸々一つ飲み込めてしまうくらいに。  不思議な話だけれど、私はユキちゃんはお母さんなのだと、何故だか理解していました。ずっと知らなかったのに、何故だか間違いないと、そう確信していました。 「本当はね、声を掛けてはいけなかったの」  母は神様に会ったのだと言いました。  あなたの人生はずいぶんと可哀想なものだったから、ひとつだけ願いを叶えてあげよう。死んでもう消えて無くなると思った時、母が最期に願ったのは、可愛い我が子の成長を見守ること。神様はその願いを叶えました。  ある時は花に、ある時はヤモリに、またある時はメダカに、スズメに、カラスに。何度も生まれ変わっては、私の傍に居られるように。  けれど、1つだけ神様との約束がありました。 「美月、よく聞いて」  もうあまり時間がないの。母はそう言うと、軽々と窓枠を飛び越えて、私の腕の中にすっぽりと収まりました。真っ白でふわふわの毛は柔らかくて、とても暖かかった。トクトクと小さな鼓動が腕に伝わり、胸がいっぱいになって、その小さな体をぎゅっと抱きしめる。  後から思えば痛かったかもしれないのに、母は気が済むまでそうさせてくれました。 「美月、幸せになっていいのよ。おばあちゃんの言うことなんて気にしなくて良いの」  母を腕に抱いたまま、静かにそれを聞きました。  母も子供の頃からずっと、幸せになってはいけないと言われ育ったのだと。祖母がずっと不幸だったから、祖母よりも幸せになってはいけないと。私を産むまでは、本気でそう信じていて、ずっとそうやって生きてきたと。だけど、そんなのは間違っていたことを、死ぬ頃になってやっと気付けたのだと。  花も、ヤモリも、メダカも、スズメも、カラスも。私が大事にしていたものはみんなみんな、祖母に見つかって、知らないうちにどこかに捨てられてしまいました。   「お母さんは、美月に幸せになってほしい」  気が付けば、あんなに大きく見えていた月は、もう元の大きさとほとんど変わらなくなっていました。  花も、ヤモリも、メダカも、スズメも、カラスも。白猫のユキちゃんも。私の母はいつも姿を変えては傍にいてくれたのです。  ぎっと抱きしめた時、何かが腕を暖かく濡らしているのに、本当は気がついていました。 「私にはね、兄がいるの。その人を頼りなさい。大学のことも力になってくれるはずだから」  母の言うままに、母の兄で私の叔父だという人の名前と住所を控えました。  叔父は祖母と仲が悪く早くに家を出て二度と帰ってはいなかったから、私は母に兄がいたことすら知らなかったのだと知りました。母は生きている時に、何度か手紙のやりとりはしていたそうで、だから私のことも叔父は知っているのだと。  そうこうしているうちに、窓の外の月はもうすっかりと元の大きさに戻っていました。 「…お母さん、ありがとう」  それが聞こえていたのかは、分かりませんでした。  腕の中のユキちゃんの白い毛は、お腹から足にかけてが赤く染まっていて。さっきまであんなに暖かかった体はもう冷たかった。  それでも私はせめて最後にと、もう一度だけぎゅっと優しく抱きしめる。勿論反応はないはずなのに、不思議と抱きしめ返してもらえたような、そんな気がして、目の奥が少しだけ熱くなる。  神様は母に言いました。  何度生まれ変わっても、何に生まれたとしても、娘の傍にいられるようにしてあげよう。  その代わり、一度でも口をきいてしまったら、それは全て終わりになってしまうからね、と。
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