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中・ニ
黒い鉛のような波がうねる。きれいだったであろう夕日は地平線の彼方へ沈み、俺たちに残されたのはただ暗いだけの海だ。でも考えてみれば、むしろこちらの方が俺たちにはお似合いなのかもしれない。きれいな淡い茜色の空はもっと眺めるべき人たちがいる。
「おい、生きてるかー」
昼の教室の質問が繰り返される。浜辺の向こう側からビニール袋を持って歩いてくる背の高い人物を認識し、俺はゆっくりと目線を向けた。
「うん。なんとか」
「マジか。やめろよ、ここで海に飛び込まれでもしたら困る」
「あ、そんな感じに見えた?」
「ん……なんかもう、半身飛び込んだみたいな顔してた」
「なんだそれ」
俺は苦笑した。今日華は体育座りをする俺の隣にストンと腰を下ろす。しばらくそのまま真っ暗になった海をじっと見ていた。わずかに雲間から漏れる月明かりが波に淡いハイライトを加え、その上に浮かぶ小さな泡がゆらゆらと流れのままに揺蕩いている。
「……双って何人家族?」
「三人。父、母、俺」
「一人っ子か。なんか想像できる。親と仲いい?」
「あー、うん。そんなに会話するわけじゃないけど、適度な距離感かな」
「へぇ、俺と逆だな。俺はオヤジが先に亡くなって、今は母さんだけなんだけど、めちゃくちゃケンカする。顔を合わせればどっちかが必ず文句言うし」
「そうか。でも、なんかいいね。ケンカするほど仲がいいって言うしさ」
「お前、一回家に来いよ。そんなこと言えなくなるから」
ガシガシと片手で今日華が頭をかいた。きっと今日華の家には今日華にそっくりな母親がいるのだろう。二人には申し訳ないが、想像しただけでかなりうるさそうだと思った。自分で勝手にした脳内シュミレーションに思わず吹き出してしまう。
「ふははっ、何それ楽しそう」
「いや、なんでだよ」
「んー、俺、たくましい人は嫌いじゃないからさ」
「ま、たくましいといえばたくましいが」
「そこは認めるんだ」
俺はまたクスクス笑い、その声がさざなみの間に響く。夏の夜の海辺はひんやりしていて、時折通り過ぎる海風もたいへん心地よかった。
「……あのさ、まだオヤジが生きてた時、母さんは専業主婦やってて、オヤジは鮮魚の卸売業者だったんだ。そんでまー、オヤジは昔の人だから亭主関白っていうの? 金稼いでるんだから従えって感じでさ。母さんと俺はお金を恵んでもらう弱い立場だった」
沈黙の後、今日華はぽつりぽつりと昔の話をし始めた。俺は静かにただただその話を聞いている。人から家族の話をあまり聞かされたことがなく、どんな顔をして聞けばいいのか見当がつかなかった。
「母さんはよく、余計な金を使っているとオヤジに責められていた。夫の労働から生まれた金でよくも自分の物が買えるなと。でも母さんは、そんなに言うなら家事仕事に給料を出してくれと言い返した。普段自分達のために労働してくれているのに、まさか労働に料金が発生しない言うわけないだろうってね。すごい剣幕だったし、オヤジも若干ビビってたな」
今日華は思い出し笑いをした。その表情はどこか懐かしげで、例え親の言い合いだったとしても今となっては久しい思い出なのだろう。そんな今日華のサラサラと風にそよぐ髪を見ながら俺は話の続きを促した。
「本当にそうなったの?」
「いや、オヤジがカンカンでさ。妻が家の仕事で金を取るなんて前代未聞だって言って、そんで結局母さんが折れてその話は流れた。まあ、意見が通らなくても母さんはケロッとしてたよ。足ることを知るというか、自分の満足度を自分で調整して後は他人を立てられる。現代は謙遜の文化を欧米に倣ってなくそうとしてるけど、俺はそれもまた狡猾な強さなんだって思ったね。だから母さんとはケンカするけど、まー、尊敬はしてる」
「母は強し、だ」
今までの話の総まとめを述べる。父親はもちろん尊敬に値するが、母親もやっぱり偉大だ。そんな二人の間から生まれ落ちたんだから、もっと毅然として生きなくてはと時々思い直す。
高校生にもなると調子に乗って見落としがちだが、やはり大人と子供の間には大きな壁がある。それははっきりと知覚することはできないが、確かに両者を隔てる何かが間に存在するのだ。ちなみにここでいう『大人』とは年齢や身体的な区分ではなく、精神的な成熟度合いで区別したものである。
「そういう強い大人には憧れる。だけど、まあ、もう少し子供でいたいかな」
俺の口から素直な言葉が漏れた。隣の今日華はそれを聞いてクスッと笑い、先程下げてきたビニール袋をあさり始めた。コンビニに行ってくると言って、数分俺がひとりで待っていた時のものだ。
取り出したのは、A4サイズで透明なビニールに包装されたお馴染みの花火セットだった。手持ち花火やら線香花火がぎっしりと詰まっている。今日華は背負ってきた学校指定のリュックからライターを取り出し、砂浜に置いた花火の袋を開け始めた。もともと計画していたのだろうか、やたらと手際がいい。
「ほら手伝え、子供」
俺はふっと笑いながら花火の袋を取り払い、中の紙の板の上に花火を広げて並べた。さっそく俺と今日華は端からそれぞれ一本取って、今日華がライターの火で炙る。しゃがんだままでは危ないと立ち上がり、それと同時にシューッという音を立てて光の穂が先端から吹き出し始めた。闇夜には明るすぎるほどの閃光だった。数多の白い線が曲線を描いて砂浜へと落下し、じきにすっと消えていく。その儚い光景は幼い頃から見慣れていてもなお、思わず息を呑んでしまうほど綺麗だった。
「なんかさ、今最高に夏っぽい。そんで青春」
「あ、やろうとしたのってそういう理由?」
「いや特にない。てか、そんなんどうでもいいだろ。たいていの理由なんて後からついてくるものだし」
「悲しい現実だね」
一本終わったらもう一本。俺たちは順番にライターを回しながら花火セットを消費していった。大きな低い音を立てる海を背景に、ひらめく火花の演舞にただただ見惚れる。
花火が綺麗だった。藍色の海も綺麗だった。この瞬間の全てが永久に留めたいほど綺麗だった。
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