川の向こう側

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「なにそれ? 普通そんなことで怒る?」  康二は言う。あたしは苦笑混じりに答える。 「だからあんたはモテないんだってば。少しは女心勉強しなよ」 「女心、ねえ」  康二は不貞腐れた様子でアイスコーヒーのグラスをかき回す。 「いや待てよ、宏美だって女じゃん? 俺、宏美が理不尽に怒ってるって思ったこと、一度もねーぞ?」 「そりゃそうだよ。だってあたし康二に”女心”で接してないもん」 「なんだそりゃ。女の心なら女心なんじゃねーの?」 「女は相手を男として見た時女心を発動させるの。男だってそうでしょ? あんた、由紀恵の前ではあたしの前よりカッコつけようとか強いとこ見せようとか思ったりしない?」 「それは……ある、かも」 「ほらね。いっしょよ。今更男も女もない、ときめきなんてカケラもない相手ならスルーするようなことでもさ、恋愛対象とかその候補として意識してると、妙に腹たったりするの。極端な話、あたしに彼氏ができたとして」 「え、できたの?」 「たとえば、だってば。できたとして、さ、私があんたの前で惚気ても、あんた嫉妬したり怒ったりしないわけでしょ」 「それは……多分」 「あたしだってあんたに由紀恵の話聞いても腹なんか立たないし? だからこうやって相談に乗ってあげてるんじゃない」 「お、おう。悪ぃな」 「悪くないってば。そういうとこ含めてね、康二は女心っていうか、男女の機微? そういうのをさ、もっと学んだほうがいいよ」 「そういうもん……なのか」 「そう。たとえ理解できなくてもね、こう言ったら怒るとか、逆に喜ぶとか、そういう反応のパターンだけでも、頭に入れときゃいいのよ。そしてあたかもわかっているかのように振る舞うの。ほら、言うでしょ、『男と女の間には、深くて広い川がある』って。男女に限らずね、人間同士の理解なんか所詮幻想なんだから、上っ面だけ理解し合ってるふりをすれば、それで『お互いわかってる』ことになるの」 「いやそりゃさすがにどうなんだ」 「だって見えないでしょ、心なんて。さわれないし匂いも音もしない。あるかどうかもわからない。そんなものに振り回されるくらいなら、心っていうのは行動のパターンだって割り切った方がいいのよ」 「クールだなああいかわらず」 「あなたたちがウェットなだけだと思うよ」 「え?」 「なんでもないなんでもない。ほら、そろそろ時間でしょ。由紀恵にちゃんと謝んなよ」 「あ、ほんとだ……いつもありがとう。ここ、払っとくから」 「そう? 悪いわね。それじゃ」 「おう、じゃあな」  康二が慌ただしく去っていくのを見届け、半分ほど残ったレモネードをのんだあとで、私はその喫茶店を出た。  駅に向かう道をしばらく進んだところで、人気のない路地を右に。前後を確認して見られていないことを確かめた後で、存在しない角を左に折れて、折り畳まれた空間の内側へと身を滑り込ませる。 『やあ、おかえり』  大気の振動とは別のある種の電磁波で私にそう言ってよこしたのは、発音不可能な名前の私の同居人。 『どうだった、今日のリサーチ』 『あいかわらずわかんない』  あたしは人の形を解除して第三中肢の鉤爪をメタンの煙に燻らせながら答える。 『ほんっと、地球人って意味不明。あたしたちとは根本的に精神構造が異なるのね。まあ行動パターンなぞるのだけは慣れたけどさ』 『論文、まとまりそう?』 『どうかなー。いくら異質でも少しは共感できるとこがないとね、とっかかりってもんが見つからなくて』 『そっかー。まあ急いでないんだし、焦らずのんびりやればいいんじゃない?』 『まあそうさせてもらうわ。あなたは好きに帰っていいからね』 『大丈夫。今も半分は帰ってるから』 『あ、そうなんだ』  あたしたちは地球人には共感しようのないであろう感情を、互いの触覚を触れ合わせて共有した。  
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