chapter 4

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 マウンドに集まる六人の選手。  通常なら伝令がマウンドに向かうはずだけど、先にベンチから出た監督が、メンバー交代を告げに審判の元に向かった。 『どうやら西城高校は、選手の交代があるようです』 『当然でしょう。今の悪い流れを断ち切るためにも、ここは積極的な手を打って出るべきです』 『ただ、誰が替わるか、というのが西城の大きな問題なんですが』 『ええ、それなんです。関君が健在なら間違いなく彼の登板、言い換えれば投手の交代ですが、彼の状態で今日の登板は――』  そこに、かなり遅れてベンチからの伝令か、選手が二人出てきた。 『あっ! 噂をすれば関君です。それにもう一人、前回伝令を伝えに出ていた迫田君がベンチを出てマウンドにゆっくり走って行きます』 『二人ともグラブを抱えてますね。ということは交代はこの二人でしょう。それにしても関君は肩も作っていません。ぶっつけ本番、という事になりますが――』  急に音声が途切れ、何やらざわついた。  そして―――  俺の耳に、信じられないメンバーチェンジが届いた。 『失礼しました。西城高校選手の交代です。ショートが成瀬君から迫田君に替わります』 「う……そ、そんなバカなッ」  思わず立ち上がって叫んでいた。 「落ち着け一聖」  俺の腕に伸ばされた指先を、ほとんど無意識に払いのけてた。 「これが落ち着いていられるかッ!! 一番活躍してたのワンちゃんじゃんっ!! こんなの――」  義純を上から睨み付けて言いかけた言葉は、画面から流れるアナウンサーの、聞き違えようもなくはっきりした声を拾った途端、遥か彼方にぶっ飛んでしまった。 『ピッチャーが、田島君から成瀬君に代わります』   「何ですと~?」  微塵も緊張感のない台詞が今井副キャプテンの口から飛び出して、画面にかじりつくより先に、どさっとイスに座り込んでしまった。  半分、呆けたみたいになっていて、慌ててぶるぶる頭を振った。  画面の向こうでは、西城の選手の中でも動揺が走ってる。  きっと、最後の奥の手。  クモの糸より細くてもろい命綱、だ。  だって俺に言った。あの穏やかな優しい眼差しで。 『内野でも外野でも構わない、ボールを追ってグラウンドを走るのが、何より楽しい』  あの時の言葉に、ウソなんかなかった。絶対に―――  映された電光掲示板には、交代のあった二人の選手名がはっきりと表示されている。  ワンちゃんはッ!?  捜した先で、背番号6を付けたスレンダーな身体が、ぐらっと傾ぐ。 「ワンちゃんっ!」  足元がふらつき倒れそうになった身体を、結城キャプテンが横から支えた。  当ったり前だ! いきなりピッチャーなんて、いくらワンちゃんでもできるわけないだろうがッ! 相原みたいに怪我でもしたらどうすんだッ!! 「おい~、大丈夫かよ、あいつ」  今井副キャプテンが、自分の胸を押さえて声を絞り出す。 「それより先にしなけりゃならねえ心配があるだろうが!」  県大会以前のワンちゃんを全く知らない浜名キャプテンが至極当然の疑問をぶつけ、ざわつくかに思われた食堂がまさしく水を打ったように静まり返った。  ここにいる全員、解説者の情報量の方が自分達より多いと踏んだんだろう。  それを聞く為だ。 『いやぁ、本当に驚きました。まさか成瀬君がマウンドに上がるとは』 『これ以上ないくらいの奇抜な抜擢ですが、彼は投手の経験は?』 『いえ、手元の資料には全く。それに入部自体、昨年十月になってからで、九月までの半年間はどの部にも所属してないんです』 『……という事は、昨年の県大会はおろか、秋季大会にも出場していない、と?』 『ええ、そうなります』 『ではこの春の大会は? 彼の実力ならたとえ途中からでも当然選ばれるでしょう?』 『ええ。レギュラーで出場しています。今と同じ6番ショートで。三回戦で負けてますが』  「おいおい、マジでド素人じゃねえかよ」  いや、ド素人なんかじゃない。だって、俺が唯一憧れたピッチャーだ。 「何考えてんだ、西城のカントクは」  恐らく、この試合に勝つ為の、最終手段。 『………取りあえず、投球練習を見てみない事には何とも言えませんね』 『おっしゃるとおりです』  ワンちゃんの情報なら俺と義純だけで十分おつりが来る。  けどワンちゃんに口止めされた。自分がここに……俺を訪ねて来た事は、他の部員には内緒にして欲しいと。  そんなわけでうかつな事は話せなくて……何より、ワンちゃんの事は一番大切な心の拠り所だから、過去の繋がりも俺が彼をワンちゃんと呼ぶ理由も、他人に話した事はないし、義純以外の部員は多分知らない。  アナウンサーとゲストのやり取りから、中断していた試合場に画面が戻る。  誰もいなくなったマウンドに、ただ一人立つ背番号6。  エースナンバーでも、控え投手でもない、誰よりもフィールディングの上手い彼が――  くず折れるように片膝を付いた。 「ッ!! ……」  声にならない叫びが、からからに乾いた喉の奥で引っかかる。  震える指先をプレートに伸ばすワンちゃんの、初めて見せる頼りない姿に、息が……止まった。  ワンちゃんが、俺に助けを求めてる!  本当なら、そこに立つはずだった俺に。   誰にわからなくても、俺にはわかる。  復帰を誓い、同じプレートに密かに想いを託した俺だから。 「あ……」  喘ぐように浅く呼吸を繰り返し、引きつった喉元に手をやった。  助けたいのに、ただ見てるしかできない。  もどかしくて、苦しくて、胸が痛くてたまらない。 「ワン……ちゃん」  ――立てよ、…立ち上がってくれッ!   誰か……誰でもいい、マウンドでたった一人苦しんでる彼に、俺の心を伝える術があるなら、今すぐ教えて欲しい。  カメラワークが高視聴率を期待してか、数々の好プレーを連発してきたワンちゃんの、プレッシャーに押し潰されそうな姿を映し続ける。  胸の前で組んだ指の、関節が軋みそうなほど強く握り締め、ギリッと唇を噛んだ。  テレビを作る側の魂胆に、あっけなく乗せられてしまう自分が腹立たしくて堪らない。  こんな姿なんか見たくないのに、映像から目が離せない。  くそったれがッ!   負けてたまるかっ。  俺自身に言い聞かせるように、心で悪態を吐いた。  奴らの思惑通りになんて、絶対ならない。  潰されてたまるか!  頼むよ、ワンちゃん! こいつらの餌食になんか、ならないでくれ!  ワンちゃんの望んだ事じゃない。  それがはっきりとわかるから――祈らずにいられない。  これまでも、こんな事の連続だったんだ。  裏切られたと思って腹を立て、憎んだ事まであった。  けど、そうじゃない。  溢れるほどの才能があるから、何でも器用にこなしてしまうから、頼られて、無用な責任を無理矢理押し付けられてきたんだ。  そして、きっと不本意ながらもそれに応えてきた。  でなければここで……こんな場面でまで担ぎ出されるわけがないんだ。 『マウンド上で片膝をついた成瀬君、立ち上がりません』 『気持ちを切り替えているのか、立ち上がれないのかが問題です。後者だとこれから先の投球にも影響してきます』 『思い切った作戦に出た西城高校ですが、…大丈夫でしょうか、非常に心配です。何とか投球練習だけでも始めれば、落ち着くと思うんですが』 『その通りですが、……いくら成瀬君が素晴らしい資質を持っているとしても、一度もマウンドに上がった事がないなら、彼に課せられた責任は重すぎます』 『ええ、全くです。――ショートでは再三、好守備を見せてくれた成瀬君、どうにか立ち上がって欲しいです』  静まり返っていたスタンドが、マウンド上のリリーフピッチャーの異常事態を察し、ざわめき始める。  不安に押し潰されそうな気分でワンちゃんを見つめていた俺の耳に、聞き慣れた声が聞こえた。 「―――投げるぜ、あいつは」  静かに呟かれたその台詞が、締め付けられていた胸の中に、不思議なほどあっさり落ちてきた。  ためらいも露わに相棒を見遣ると、その眼は俺と同じ、画面しか見てない。  けど、信じるには十分な、確信に満ちた横顔。 「……うん」  頷いた途端、何でか泣けそうになって、慌てて視線を画面に戻した。  口を開けばワンちゃんを罵ってばっかの義純だけど、本当は誰よりもその才能を買ってるって、知ってる。  その視線の先で、今度こそ義純の言葉を証明するように、ワンちゃんがプレートにのせていた手をぎゅっと握り締めた。    顔を上げ、その先にいるはずの山崎に視線を向ける。  瞳から、戸惑いや迷いが消えていくのを、瞬きもせずに見つめた。  投手用グラブを地面にそっと置いたワンちゃんが、おもむろにスパイクの紐をほどき、ゆっくりと絞めなおす。  指先の震えまで克明に映していたカメラ。  そこに映るワンちゃんの指の震えは、まだ治まってない。  けど、とにかく行動を起こした事に少しだけ安堵する。  それと同時に、止まっていた時間が動き始める。  誰でもない、ワンちゃんが動かした。  立ち上がり、固まっていた筋肉を解すつもりなのか、マウンドの真ん中で屈伸を始めた。 『マウンド上の成瀬君、ようやく立ち上がりました』 『あ~、汗が出ましたよ。私は』 『ひやひやしましたが、時間にしたら三十秒ほどなんですがね』 『そんなものですか? もっと長く感じましたが』 『プレー中は止まる事自体、そうないですからね。余計時間の経過の感覚が狂うんでしょう』  次いでマジ準備運動をやりだしたワンちゃんの姿に心からホッとして、イスにぐったりともたれかかった。 「そこで身体をほぐすかな」 今井副キャプテンが呆れ声でぼやき、浜名キャプテンがクックッと肩を震わせた。 「相変わらず、何やりだすか予測不可能なヤツ」 「けどま、どうにかなりそうじゃね?」 「さあ、どうだろうな。……それにしても正直疲れるぜ、こいつらの試合は」  半分諦めにも似たため息を吐かれ、俺の口元にも苦笑が浮かぶ。  ようやく金縛りが解けたように、和泉の食堂にも賑やかな話し声が戻ってきていた。 『一時はどうなるかと思いましたが、どうやら大丈夫のようです』 『それにしても、これだけの短時間でよく気持ちを切り替えました。プレーもですが、その精神力に驚かされます』 『問題は、成瀬君の投球ですが』 『それは、誰にもわかりませんね』 『はぁ、…何と言うか、色々と驚かされますね、西城には』 『ハハ、同感です』  自分が話のネタにされてるなんて、きっと思いもしないんだろう。  当のワンちゃんは、その場で軽くぴょんぴょん跳び出した。  凄い! 完全に立ち直ってる……ってより開き直った!!  ついで、右腕を大きく回し始める。  それを見て、「あっ!」と短く叫んでた。  忘れもしない小学六年の大会、初めてワンちゃんの投球を見た時と同じ。  あれは、マウンドに立つ前のワンちゃんのクセだ。  気付いた途端、胸の中が懐かしさで一杯になった。  ワンちゃんだ!  誰の投球にも興味なんかなかった俺が、唯一関心を持ち、憧れた。  あの頃のままの。  そんで、相棒はやっぱ山崎だ。彼しか考えられない。  五年振りに目にする、ワンちゃんのマウンド。  見たくて見たくて、無理を承知で頼み込んだ。  ここで――本当の試合の、しかもこの場面で投げるなんて。  それを、この目で見る事が叶うなんて。  この後の試合展開がどうなるのか……  そんなの、もうどうでもいい。  ワンちゃんの投球が……いいや、その後のマウンド捌きが、あの日からどう変わったか。  ブランクがあるのは承知してる。このリリーフがとんでもなく無謀だって事も。  俺自身、『できるわけない』って決め付けた。  けど、信じてみたい。  彼の投球をその手に受けた義純と同じに。  立ち向かっていくワンちゃんの、真の強さを。  俺は、彼に追いついてるだろうか?  それとも、彼の言う通り、本当にもう追い越してしまってる?  彼と対等に向き合い、ライバルだと言い合える存在になれているのか。  それを見極める絶好の機会が、目の前に広がっていた。
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