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この回は明峰の二番から。
という事はあいつに必ず回る。今大会屈指の大物スラッガー、室生だ。
その前にランナーを溜めるのは何としても避けたい。
ドクドクと、自分が投げる時以上に激しく脈打つ心臓音が信じられない。
初めて試合で投げた時にもここまで緊張しなかった。
ワンちゃんの指先の震えを見たせいか、俺の指先まで冷たくなっちまって、喉がからっからに乾いてる。
マウンドに上がる度にこれじゃあ、ゲームセットまでに干からびそうだ。
冗談交じりにそんな事を考えて、のめり込みそうになる自分をわざとセーブした。
でないとマジでおかしくなっちまう。
けど、俺がどんなにここで心臓をバックンバックンさせてようが、お構いなしに試合は進んでいく。
初球、外角一杯、膝下すれすれの球が思い切りよく叩かれた。
大きくバウンドした球が一塁に飛んで行く。柴田が落ちてくる球をキャッチし、そのまま一塁ベースを踏んだ。
ラッキーな当たりで、ちょっと気分が楽になる。
二番手、三番バッターにも同じところに。
今度はジャストミートされ、一、二塁間を抜けるシングルヒットになった。
……もしかしてワンちゃん、内角に投げるのをためらってる?
そんな当たり前の事に今更のように気付いて、自己嫌悪で一気にズドンと落ち込んだ。
硬球は恐い。それでなくても相原が打球を受けて怪我した直後だ。
万が一にもバッターに当たれば、たとえその場しのぎの救援投手でも……いや、緊急手段だから尚更、死球を出さないよう気を遣ってるし、細心の注意を払ってる。
今投げてるのはバッターもいない真似事じゃない。ちゃんと打者のいる試合の中のマウンドだ。
あまりに堂々とした投球と鮮やかなマウンド捌きに気を取られ、最初の心配も忘れてた。
本物の試合で投げるところが久々に見れると思って喜んだ、浅はかな願望が今、ワンちゃんの中でどれほどの葛藤を生んでるか、改めて思い知らされる。
まして彼は変化球もまともに投げれないんだ。
そんな状態でどうやって次の四番打者、桁違いのスラッガー室生を抑えられるっていうんだ。
不安は的中し、外角寄りのコースを見極められ、レフト後方に持って行かれた。
二本目のホームランにはならなかったものの一塁走者は三塁へ、打った室生もセカンドに滑り込んだ。
『低めに球を集め長打を警戒しているバッテリーですが、室生君にはそれも通用しません』
『成瀬君の投球は中々どうして上等です。ただ相手が悪すぎます。ここはさっきの成瀬君同様、打った室生君を褒めたいですね』
『並みの投手では彼を抑えるのはまず無理でしょう。技術もパワーもレベルが違います』
今のワンちゃんの投球じゃ、きっとそれが精一杯。
オーバーフェンスを防いだだけ上出来だと言える。と、俺も思う。
1アウト二、三塁で、五番クリーンナップラストのバッターを迎える。
一点差に詰め寄られた明峰ベンチも、その上の観客席も一体となって、再び追加点を得るチャンスに大いに盛り上がる。
五番の打者もパワーだけなら室生に引けをとらない。ただし技巧派ではない。山崎に似たタイプのパワーバッター。
恐らくスクイズとかの小技よりヒッティングに出る。
ワンちゃんもそう読んだのか、一応スクイズの可能性は視野に入れつつ、牽制せずピッチングに専念する。
投げ損じを期待してか打者が珍しく粘り、ワンちゃんの球数が増える。
画面越しにも疲れてる様子が伝わってくる。
無理もない。投打に活躍してきた上に思いもしない重責を負わされたんだ。
攻守交替した後はファーストバッターで休む間もなく打席に立ち、二塁打の後の盗塁とスクイズ。
そして、今もなおプレッシャーと戦いながらマウンドで投げ続けてる。
体力を消耗しない奴の方がヘンだろう。
互いに粘った数球目、再び快音が響き、打ち返された打球が今度はレフト前に落ちた。
高木が追いつく間に三塁のランナーが余裕でホームに還る。
それでも捕球が早かったおかげで二塁ランナーの室生を三塁に、打った五番打者を一塁に留まらせる事はできた。
ライトスタンドの洗練された応援と、レフトスタンドの落胆のため息が、画面の中で対照的にスタジアムを彩る。
その中心に立つワンちゃんが被っていた帽子をおもむろに取り、それらを振り払うようにパタパタと顔を仰いだ。
「余ッ裕~!」
「いや、ありゃあいつのクセだ」
「田島といい成瀬といい、なんであんな堂々としてられるんだ? 崖っぷちに立たされてるってのに」
「知るか。あいつらに聞いてみろ」
「……投げやりになってる、とか?」
こめかみを伝い落ちる汗をユニフォームで拭いたワンちゃんが、手にした帽子を被り直す。
大きく息を吐いて正面に向けた眼差しに、初め浮かべていた迷いや緊張は見えない。
合計すれば二時間近くグラウンドに出ている事になる。
そのせいなのかどうなのか、彼にとっては甲子園のマウンドも特別なものじゃなくなりつつあるようだ。俺の願望が入ってるのかもしんないけど。
そうであって欲しいとわずかな望みを託して、マウンドに立つ姿を見つめ続けた。
点差だけが再び開き、六対八で1アウト一、三塁。
下位打線の六番を迎え、今度はスクイズを警戒して投げるワンちゃんに気付きながら、室生が走った。
投げるのと同時にワンちゃんが迷わずマウンドを下りる。
その動きを察したバッターがプッシュバントを敢行した。
マスクを外した山崎が今度はベースから前には出ず、守備を任せる。
僅かに方向が変わり、サードとマウンドの中間に中途半端にスピードの増した球が転がった。
逆を衝かれたワンちゃんがグラブを思い切り伸ばしてキャッチし、ホームを振り返る。
室生の位置を確認して、山崎には投げず一塁、柴田のミットに送球した。
「2アウトは取れたけどスクイズ成功、か」
「スクイズ阻止はできなかったが、2アウト取れた、と思うんでない? あいつらは」
「……そうかぁ?」
間にいる二人の後輩はまるっきり無視して、先輩達のやり取りが続く。
なんなら席を替わろうかとも考えていたけど、ワンちゃんがマウンドに上がってからこっち、それまで以上に口数の少なくなった義純の隣で、自分から距離を置くようなマネをしたら火に油を注ぐ結果になりかねなくて、下手に動く事もできない。
一旦縮まったかに思えた点差がまた広がり、六対九。
2アウト二塁となって、七番の問題児、門倉を迎える。
イヤな相手だと、俺でさえ思う。
西城バッテリーは、どう挑んでいく?
バッターボックスに立つ門倉と、遠くから山崎のサインを伺うワンちゃんが一つの画面に映り、すぐに画像が切り替わった。
――背番号『6』。
あれほどピッチャーのワンちゃんに憧れ、追い続けていたのに……不思議だ。
その背番号を付けたワンちゃんの真の姿を強く望んでる、もう一人の自分がいる。
ダイヤモンドの中で、誰よりも輝ける存在が、高く盛り上がった土の上に縫い止められ、自由を奪われてる。
そう、見えた。
ピッチャーの背後からのアングルが、山崎の構えたミットの位置をはっきりと映す。
やっぱ外角寄り、インコースは突いてこない。
頷いたワンちゃんが、セットポジションでセカンドのランナーに目を遣る。
リードはそれほど大きくない。まず間違いなくヒッティングだ。
そう読んで門倉に投げかけたモーションが、不自然に乱れた。
出されたミットの反対側、インサイド胸元に食い込むようなストレートが行く。
軌道を察した門倉がのけぞり、ベースを通過した球が大きく動かした山崎のミットに、パンッと小気味いい音を立てて納まった。
審判の判定はストライク。
その投球に正直びっくりした。
山崎は明らかに外角を指示していた。そしてワンちゃんもそれに頷いた。
どういう事だ?
マスクを外した山崎が返球するのに、ワンちゃんが手首を振って投げ損じのジェスチャーをする。
という事はただ単に制球が乱れただけ、だったんだろうか?
あのワンちゃんが?
首を傾げつつ、取り合えず二球目を見守る。
山崎の要求は真ん中低目、ストライクコース。
ボールの握りを確かめたワンちゃんが投球モーションに入る。
頭にはちゃんと走者の事も入っている。
セカンドランナーを目で牽制しておいて、山崎に向かい腕を力一杯振り抜いた。
最高のしなり方だった、と思う。
それなのに投げられたボールがあろう事かポテンポテンと三回もバウンドして、ようやく山崎のミットにすくい取られた。
「ワンちゃんッ!?」
知らず叫び声が出て、腰が浮いた。
「バカがッ! 汗拭けッ」
同じく半立ちになった浜名キャプテン。
「見てらんねえっ」
俺と似たような事を叫んで顔を覆う今井副キャプテン。
三者三様の中、ブッと義純の口から吹き出た声が大爆笑に変わるのに、時間は全く必要としなかった。
ゲラゲラと食堂中に響き渡る声を上げて笑う義純を、思わずゲンコツで殴りつけたい衝動に駆られる。
投げたボールの後を数歩追ったワンちゃんが、山崎のミットに無事ボールが収まった事を確認し、ホッと肩で息をする。
バットを必死に止めた門倉が、半分転びそうになった身体を懸命に立て直し、タイムを取ってボックスを出て行った。
レフトスタンドから押し殺したような笑い声が起こる。
マウンドに戻ったワンちゃんをテレビ画面が追いかけた。
ホンット、やなカメラワークしやがる。
山崎が何か怒鳴りながらボールを投げて寄越し、ズームで受けたワンちゃんが、あろう事かとぼけた顔で「はいはい」と、答えた。
口の動きを見ただけで、はっきり読めた。
「も、ワンちゃん……バカ」
全国放送だって事、ちょっとは意識しろよ……。
頭を抱えたくなった俺の横では、義純がもっと激しく笑い転げる。
いっつも無愛想な義純をこれほど笑わせる事ができるとは、これもワンちゃんの才能なのか?
……わっかんねえ。
けど、ロージンバッグに手を伸ばす様子から山崎に何を言われたかは察しがつく。「滑り止めを使え」だ。
義純の大笑いには負けるけど、スタンドからも笑い声が止まらない。
そんな中、
『北斗ォ、負けるなーッ!』
異様に鮮明な声が、マウンドに向けて発せられた。
俺もあそこに座ってたら、きっと同じに叫んでた。
代りに喚いてくれた奴に拍手を送りたい気分だ。
伸ばしかけた手を止めたワンちゃんが、驚きもあらわに客席に目を遣り、見つかるはずのない声の主を捜す。
ぐるっとスタンドを見渡したワンちゃんの口元にふっと笑みが浮かび、そんな細かい表情なんか見えるはずないのに、レフトスタンドが騒然となった。
特に女子の甲高い声援が、急に飛び交い始める。
スタンドから視線を外し、取り損なっていた滑り止めに再び手を伸ばすワンちゃんに、
『頑張れーっ!』
『諦めんじゃねえぞォ!』
等々、今度は同級生だろうか、一人一人の叱咤激励があちこちから上がった。
やっぱ男にも人気あんだ。
俺の隣でまだ肩を震わせてる奴とは雲泥の差の、良い友人達がホントに沢山。
『汗で手が滑ったんでしょうか。もったいない一球でしたが、おっしゃる通りロージンバッグの使い方などは慣れているように見受けられます、マウンド上の成瀬君。どうでしょう、彼のこの間の取り方は?』
『…………』
プロ根性を見せ、冷静に実況したアナウンサーに振られ、しばし間の空いた音声の向こう側、ゴホッゴホッと咳払いが聞こえ、ようやくゲストのおっさんの返事が返ってきた。
『いや、――申し訳ありません、あまりにも力を……入れて見ていたもので――』
それだけ答えて、また沈黙。
これは、絶対義純と同じ反応してやがる。
アナウンサーが生真面目にゲストに振ったりするから、余計ややこしくなっちまった。
そんな周りの反応の中、当のワンちゃんの目付きがどういうわけか急に鋭くなった。
唇をきつく噛み締め、手にしたロージンバッグを握り潰して地面に叩き付ける。
その乱暴な仕草と対照的に、真っ白い粉が甲子園の浜風に散らされ、ふわっと舞い上がった。
こんな荒っぽい真似したとこ、初めて見た。
いきなりどうしたんだろ? 義純のバカ笑いが聞こえたんだろうか?
有り得ない事を想像し、隣の非礼極まりない奴をジロッと睨み付けておいて、画面に向き直る。
しっかり間合いを取り、気持ちを入れ替えた三球目、門倉のバットがワンちゃんのストライクになる球をしっかり捉え、振り切った。
抜けるっ!
そう予感するには十分のインパクト。
猛烈な勢いで地面に叩きつけられた打球が、球威もそのまま投げ終えたワンちゃんの右を抜けていく。
と、咄嗟に身体を捻った彼が左足を踏み込んでグラブを出したッ!?
バシッと、後ろ手に止められた打球の勢いは完全には消えず、グラブを持つワンちゃんの身体が大きくしなる。
『こらえろッ!』
捕球した事への驚き。
それとは別に思わず息を止め、力を込めて祈った。
左膝を付いてどうにか堪えたワンちゃんが、ボールを右手に持ち替えながら一塁を振り返る。
俊足の門倉が一塁に走る。
間に合わないか!?
判断を下しかけた目の前で、片膝立ちの彼がそのまま強引に一塁に投げた。
サイドスローで投げられたボールが低い弾道で一塁に向かう。
柴田が身を乗り出してそれを捕まえたのと同時に、ベースの上を門倉が駆け抜けた。
どっちだっ!?
一塁塁審に視線が集中する。その拳が胸の前に上がった。
『アウトッ! アウトです、門倉君。当たりは良かったんですが、ピッチャー成瀬君の好守備、好送球に阻まれました』
『あの投球の後でこのプレー、しますか。やはり彼はピッチャーではなく、フィールダーのようですね』
『再三に渡ってショートでも素晴らしい守備を見せた成瀬君、マウンド上でもそれは健在です』
って、簡単に口にすんじゃねえッ!
ピッチングとフィールディングを同等にできる奴の方がヘンなんだよッ!
あ…いや、ワンちゃんが『ヘン』って事じゃなくて……。
「どうやらピンチはしのげたな」
ふっと嘆息して呟かれた低い声、誰のものかはすぐにわかった。
さっきまで馬鹿笑いしてた奴が、意外にも真剣な眼差しをマウンドで立ち上がったワンちゃんに向けていた。
両膝に付いた泥を手の平で払い、ベンチに向かって小走りに駆け出したワンちゃんの背後から、松谷が近付き、後ろ頭をグラブで叩いて肩を並べた。
ホンット、仲いい。
こんなシーン見たら微笑ましいっつうか、羨ましいっつうか。
けど松谷の表情は、どういうわけかそれほど嬉しそうじゃなかった。
一番打者の松谷を残し、一人ベンチへの階段を下りていくワンちゃんの後姿まで捉えたカメラが、マウンドに立つ門倉に移った。
「あと2イニング、か。これで三点差は正直きついな」
画面の中の門倉を見据え、キャプテンが呟く。
「何、浜名、西城が追いつくと思ってんの?」
「いや。けどあっさり負けるような奴らとも思えん」
「そうかぁ? 三点の差で済めばいいけど成瀬があれじゃ、正直わっかんねえぜ」
さっきの投球を見れば誰だって不安になる。
そう思ってた俺は、先輩達の言わんとする肝心な事を見誤っていた。
「ま、クリーンナップは抑えたんだ。奴ならどうにかすんだろ」
「下位打線は何とかしても、だ。三人目からは上位打線だ。ヒットが出ればまたクリーンナップに持っていかれるぜ。下手すりゃ今度こそ大量失点だ」
――『ワンちゃんは、相手を三振させるのが嫌なんだ』
夕暮れの中、その穏やかな瞳を真っ直ぐ見つめて言い切った。
偽りのない素直な感想。それは恐らく核心を突いていた、と思う。
『三割は打たれた後の守りに向いてるみたいだ。バッターもいないのに、ね』
そう指摘した俺を、黙って見返していた。
それが肯定の意なのを承知で、敢えて問いかけた。
『そんなに守備が好きなんだ』
ワンちゃんに投手としての復帰を望むのは、とうの昔に諦めてた。
けど本人を前に、はっきり言って欲しくなった。彼の口から、その本心を。
『まあ、そうだな。内野でも外野でも構わない、ボールを追ってグラウンドを走るのが、何より楽しい』
望み通り、彼は真摯に答えてくれた。
相手を三振させたくない投手に、打者を打ち取る事は不可能だ。
西城の守備はあとたった1イニング。三人アウトを取れば試合は終わる。
容易いように思えるけど、あの穏やかな眼差しを持つ彼に、それは可能なんだろうか?
急に画面の中が騒々しくなり、松谷が塁に出た事を知った。
打たれた門倉のアップと、一塁ベースでタイムを取る松谷、レフトベンチのフェンスにもたれ、鈴なりになって応援する選手達が順次映る。
ワンちゃんの姿がない。と思ってたら、それを予想してたのかヘルメットを手に階段をゆっくり上がってきたところをカメラが真っ先に捉えた。
すっかり陰ったグラウンドに出て、スタンドをぐるっと見渡したワンちゃんがふっと溜息を吐き、ダイヤモンドに目を遣った。
バッターボックスには、渡辺が松谷を二塁に送るべくバントの構えをとっている。
前進守備で警戒する内野手の中、門倉の球をバットに当てた渡辺だけど、さすがにその球威には歯が立たず、転がせずに打ち上げてしまった。
ピッチャーの元に帰った打球を、門倉が左手を挙げキャッチして1アウト。
松谷もリードを大きく取らず様子を見たおかげで、ダブルプレーにはならなかった。
早くにマウンドを引き継いだというのに、未だ満足にバントもさせないその威力は、恐れるに十分だと思う。
回を重ねるごと増す球威、球速が、下手な駆け引きや小技は通用しないと告げている。
ただし俊足の松谷がスコアリングポジションに行けば、追加点が入る可能性も見えてくる。その為にもワンちゃんが打席に立つ前に、松谷を二塁へ。
それだけで、たとえわずかでも望みが繋がる。
ワンちゃんがヒットを打てば、間違いなく松谷はホームまで走る。
三度目となる門倉対結城キャプテンの対決。それは意外な展開を見せた。
キャプテン自らがバントしたんだ。
完全に勢いを消されたボールが、目の前に転がる。
多少は警戒していたバッテリーも、絶妙のタイミングに捕球が1テンポ遅れる。
一塁に全力疾走したキャプテンはアウトになったものの、思い描いた通り 松谷は余裕で二塁に進塁した。
ワンちゃんが立ち上がり、ネクストサークルを出てバッターボックスに向かう。
その横をバントを決めた結城キャプテンが通り過ぎた。
いつもの打席と同じ、バットを回して手首をほぐし、バッティングに集中していくワンちゃんは、何ていうか……
「嫌味なくらい絵になる奴だな」
『嫌味なくらい』って感想は俺の気持ちの中には微塵もないけど、義純の言う通り、まさしく『絵になる』奴だ。
『恐らく最後になるでしょう、門倉君と成瀬君の三度目の対決ですが、初打席はダブルプレーに倒れ、二打席目はサードベースへの痛烈なライナーで二塁打でした。今のところ互角と言っても過言ではないように思われますが?』
『おっしゃる通りです。恐らく門倉君の頭にも、成瀬君は要注意人物の筆頭に上げられているでしょう』
『なるほど、思いがけない「強敵出現」というわけですね。それにしても門倉君にとっては、同じ投手の加納君がそうなるはずだったんですが、皮肉と言いますかなんと言いますか――』
『そうですねえ、門倉君対加納君の投手対決、見たいと思っていましたが、今はそれ以上にこの試合に満足していますよ』
『それはもちろん、私も全く同じ気持ちです。それでは注目の対決を見守る事にしましょう』
2アウト、ランナー二塁。
小細工はない、ヒッティングだ。
門倉もそれを読んでる。
全力でワンちゃんに向かうだろう、珍しく気迫を込めた眼差しでバッターを見据える。
いい眼、してやがる。
野球雑誌の表紙を飾った『門倉 湊』。
あれは今年の甲子園特集を組んだモノで、中には彼の記事が五ページ以上に渡って載っていた。
その男に、こんな眼をさせるヤツなんだ、ワンちゃんって男は。
負けずに見返したワンちゃんの、グリップを握る指に力が入る。
マウンドでの彼とは違う、自信に満ちた強く揺るぎない眼差し。
………惹き込まれる―――。
その初球。全力投球のストレートが、胸元ぎりぎりストライクコースを外れてミットに収まった。
ワンちゃんは、ピクリとも動かない。
それが逆に……恐い。
こんなに集中してるワンちゃん、久しぶりだ。
二年前の、あの2ホーマー浴びた時の雰囲気に似てる。
手の平に汗がじんわり滲む。
それを固く握り締めて、ダイヤモンドを見守った。
二球目、打つ気に満ちたワンちゃんの裏をかくチェンジアップで、スローカーブが大きく曲がり、ストライクゾーンぎりぎりに落ちた。
ワンちゃんは……やっぱり動かない。
と、いきなりタイムを取りボックスを出てしまった。
この組み立てには覚えがある。
あれだ、八回表のワンちゃんのすっぽ抜け。あの時の投球に似てる。ってか、そのまんま。
ただし二球目のチェンジアップははっきり言って雲泥の差だけど。
比べてみて、「あっ!」とまた声が出た。
ワンちゃんにもわかったんだ。だからあの時の門倉と同じにタイムを取ったのか。
気付いた途端、クスクスと笑いが込み上げてきた。
何て奴らだ。この状況で、二人揃って遊んでやがる。
同レベルだ、同レベルのバカなガキだ。
それがたまらなく嬉しい。
その事実に気付いた俺もおんなじ。間違いなく同類、だ。
門倉の方は、さっきのワンちゃんの心理的な動揺に一層揺さ振りをかけてきたつもりだろう。
対するワンちゃんは――
ボックスに戻り、門倉に対峙したワンちゃんの目付きが鋭さを増した。
仕切り直した三球目。
超高校級の左腕から投げられた球が、食い込むようにワンちゃんの胸元に入ってきた。
左足が外寄りに踏み込まれ、バットが門倉の球を完璧に捉えた。
渾身の力でバットが振り切られる。
綺麗なスイングで飛ばされた打球が、爽やかに澄み切った甲子園の空へ高く舞い上がった。
『打ったぁッ!! 打ちました成瀬君、文句なしの特大ホームランッ!』
アナウンサーの実況を受け、カメラがその打球を追う。
日の翳ったグラウンドから高く打ち上げられたボールが、太陽の残照に当たり純白に光りながら弧を描いて飛んで行く。
その、奇跡のようにまばゆい光景を、息を呑んで見つめた。
全身を熱い何かが駆け巡る。
センター上段に飛び込んだ打球。
その遥か下方では、行方を確認しバットを手放したワンちゃんが、割れるような拍手と力強い演奏を背にゆっくりとダイヤモンドを走り始める。
派手なポーズも、喜びさえその顔に浮かべる事なく、ただ淡々とベースを回る。
県大会の時も同様だった。
予選の時から感じていた、この違和感。
俺の元を訪ねてきたワンちゃんとは、別人の彼がいた。
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