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chapter 6
文句なしのツーランを放ったワンちゃんがサードベースの手前で少しだけ顔を上げ、レフトスタンドに目を遣る。
隣同士抱き合い喜ぶチアガール。あんな応援、県大会の時にはなかった。
壊れそうなくらい激しくメガホンを叩く西城の学生。
もう思い残す事ないって程の盛り上がりを見せる観客席。
それはワンちゃんの一振りがもたらした、奇跡のホームランの賜物だ。
『ダイヤモンドを淡々と回る成瀬君、それにしても見事な当たりでした。これまで触れていませんでしたが、このホームランで成瀬君はサイクルヒットを達成した事になります』
『ああ、やっぱり。そうじゃないかと思ってました』
「サイクルヒットだと、どこまでも生意気な奴」
「県大会で喰らわなくて良かったぜ」
「あ~、それはほら、あいつの『怪我の功名』?」
答えた今井副キャプテンが振り向いてセンターの八木を目で示すのに、浜名キャプテンがすかさず反論した。
「『怪我の功名』ってのはな、マジで怪我する奴の事じゃなくて、な~んも考えずにした行動で、偶然いい結果が出る事を言うんだ。八木の捨て身の捕球とは根本からして違う」
「だろだろォ? やっぱ浜名はキャプテンだけあるぜ。俺の気持ちの奥深~くまで、しっかり読んでくれてるもんなぁ」
満面笑顔で、尻尾までも見えそうな八木を振り返ったキャプテンが、小さく嘆息し、
「『馬鹿に付けるクスリなし』。これは合ってるよな?」
俺にだけ聞こえるように、身体を屈めて首を傾げた。
ホームに還ってきたワンちゃんを、先に還っていた二塁走者の松谷が力任せに抱きしめて追加点の喜びを分かち合おうとする。
その暑苦しい抱擁から逃れ、それでも二人肩を並べてベンチに戻る。
途中、山崎が伸ばした右手をバッティンググローブを嵌めた手で、パシッと叩いて行った。
『ホームラン』っていうもっとも楽な方法でホームに還ってきたワンちゃんだけど、そう長くは休めないだろう。
今の山崎はバッティングよりキャッチャーとしての仕事の方が重要だ。そんな状態で門倉の球を打てるとは到底思えない。
その山崎の打席より、ベンチに戻るワンちゃんをカメラが追い続けるから、俺も自然とそっちに目が行く。ってか、そこしか見えないんだよ!
……ああ、球場に行きてぇ。
真剣に思った矢先、俺は何だか見てはいけない光景を目にしてしまった。
ダッグアウトの前で仲間の歓迎を受け、今度は余裕をもってそれに応えたワンちゃんが、奥のベンチに座り、疲れた身体を投げ出して寛ぐ。
そんな様子まで克明に捉え満足したカメラが、さっきのホームランのVTRに切り替わる。
その前のほんの一瞬、紺色のタオルを手元に引き寄せ、宝物のように愛おしそうに抱き締める姿が、はっきりと見えた。
他の誰が見ても全然不自然じゃない。
バッティングを終え、ベンチに下がってタオルで汗を拭く。
何でもない仕草だ。
けどあれは、間違いなく吉野が誕生日のプレゼントだと言って渡したタオルだった。
贈り主を知ってる俺の目には、そのシーンが全くの別物に映っていた。
今日、吉野はインターハイ全国大会の三日目に入ってる。
会場は広島。
初日、二日目と好調を維持し、楽勝で最終日に残ったのは今朝の新聞で確認済みだ。
地元でなくても同じ県の代表が全国で活躍する記事は、当然大きく扱われる。
それは剣道というマイナーなスポーツでも同じ。
ベスト8を決めた時の相手への見事な面が、カラーで大きく紙面を彩っていた。
今朝、漁るように新聞を広げお袋に妙な顔をされたけど、あれが防具を付けた写真じゃなく素顔のインタビューかなんかだったら、お袋も絶対一緒になって騒ぎまくってた。
それはともかく、あのベンチの様子を見れば、さっきのホームランの根源がどこにあったか簡単にわかっちまう。
この球場に来る事のできない、吉野への一発だったんだ。
打ちたいと思ったって、そう簡単にホームランなんか打てるもんじゃない。にも関わらず、怪物相手にそれをやってしまうワンちゃんも相当だと思う。
その力を発揮できるのは吉野の存在が大きいからで―――
ワンちゃんはやっぱ彼の事、ただの友人とは思ってない。
今のシーンを見て、半信半疑だった思いが確信に変わった。
なら、吉野は? どうなんだろう。
好意を抱いてるのは直接二人だけで話してよくわかったし、大切な存在には違いない。なんせ自分の家で一緒に暮らしてるくらいだ。
ただ、それが恋愛に繋がるかどうかは別問題だ。
それに剣道一筋の吉野の気質から考えても、同性同士の恋愛を肯定できる性格じゃない気がする。
それでも、願わくばあの二人には今の俺と同じ道を辿らないで欲しい。
こんな……ただ苦しいだけの報われない想いは、俺一人だけで十分だ。
「おい…あいつ、なんか変じゃね?」
自分の事を言われたのかと思い、ハッとして顔を上げた。
声の主である浜名キャプテンを見ると、その目は画面に注がれてる。
「あれ、また固まってんのか?」
今井副キャプテンの方が先に誰の事か気付いたらしい。
『また』って言ったら、その対象になるのは一人しかいない。
「や、そうじゃなくて、具合悪そうに見えねえか?」
そう言われ、慌てて画面に目を遣った。
西城のベンチ前では、早々にアウトになった山崎がレガースを付けてる。
ピントの合ったその奥、薄暗い中に、さっきと同じ場所に佇むワンちゃんを見付けた。
山崎の隣に立った監督が、ポジションに散っていく選手一人ひとりに短く声を掛け、送り出してる。
スタメン以外の選手も同様で、中にいるワンちゃんの異変に気付くヤツは一人もいない。
はっきりとは確認できない。
前の席の背もたれに手を伸ばし、上半身を支えるワンちゃんは微動だにしない。
思わず生唾を飲み込んだ。
やっぱ体調がよくないのか、それとも何か考えてるだけなのか、和泉の食堂のテレビ画面ではさっぱりわからない。
もしかして、これまで相当無理してたのか?
ワンちゃんにまで何かあったら、もう西城は―――
絶望的な気分に支配されかけ、クラッと目眩が起きる。
西城のメンバーを撫でるように映したカメラが明峰のベンチに移り、攻撃の準備をする先頭バッターから順にアップで捉え始めた。
その後の西城の様子は、もうわからない。
アナウンサーでさえ手前の山崎や松谷、監督に気を取られ、ベンチの中の様子にまで目を遣る事はしなかった。
「やっぱ一気にきたか」
「ああ」
ツーカーで答え合う両端の先輩達を、忙しなく見遣る。
この無茶なリリーフが、ワンちゃんの体力を急激に消耗させると、とっくに気付いてたのか。
「出れるのか? あいつ」
「さあ、な。けど――」
「出るに決まってんだろ」
すっかり暗くなった俺達の中にあって、最初から全く態度の変わらない義純が、何でもないように答えた。
「義純?」
「マジでヤバイのは、あいつじゃねえよ」
「え、それって……どういう意味?」
「見てりゃわかる。それに――」
一旦言葉を切った義純が、珍しく小さな溜息を漏らした。「杞憂で終わるならそれが一番だ。そんな事よりこの回で見納めだぜ。慣れないとこで奮闘してるんだ、せいぜい応援してやるんだな」
あごをしゃくられそっちに目を遣ると、監督に背中を緩く押されたワンちゃんが、軽く頭を下げてベンチから出て行くところだった。
上手くかわされた気がする、義純がワンちゃんの応援を勧めるとは。
そうは思っても確かに今の俺にはワンちゃんが最優先事項だ。
気持ちを切り替えて画面の中の彼を入念にチェックする。
足取りは……いつもと変わりない、それに表情も。それを確認してホッと胸を撫で下ろした。
いつの間にか、彼ならこんなピンチ、苦もなく乗り切ると思い込んでた。
この回で全て終わると、勝手に決め付けていた最終回。
その姿がレフトスタンドの観客に見えた瞬間、門倉が初めてマウンドに上がった時と同じほどの、大きな拍手が起こった。
……この歓声!
これが、全部ワンちゃんに向けられてる。
そう思うだけで、ゾクッと鳥肌が立つ。
やっぱワンちゃんはこうでないと。
俺が見つけた、ただ一人の憧れ。そして最高のライバル。
誰よりも先にワンちゃんの才能を見出した自負。
その優越感に、俺はどっぷりと浸り切っていた。
それなのに、マウンドに立つワンちゃんは最初と変わらずにこりともしない。
―――最後まで西城らしい試合を。
それを期待して見続け、その期待に十分すぎるほど応えてくれた。
ただ楽しそうな様子があまりにも少なくて、それだけが唯一心残りだった。
確かにこの状況下で気持ちに余裕はないかもしんないけど、『俺達らしい試合』と言ったからには、試合の勝敗はもちろん、俺達への負い目も感じる事なく、甲子園でのプレーを純粋に楽しむだろうと思ってたんだ。
『一点差に詰め寄った西城高校、九回表のマウンドに上がる成瀬君に、レフトスタンドから大きな歓声が起こります』
『当然でしょう。ここまで互角に戦ってこれたのは、彼がいたからと言っても過言ではありません』
『ええ。七回途中からとはいえ、思いもしないリリーフ当番。その重責を見事に果たしての結果ですから。――走、攻、守、どれをとっても非の打ち所のない、素晴らしいプレーヤーです。彼ほどの選手が、どうしてこれまで名前すら聞かなかったのか、不思議な気がします』
その、何でもない会話に、後頭部を殴りつけられた気がした。
―――このせい……だったのか。
ワンちゃんを褒めまくる二人に、少しも同調する気が起きない。
それをこいつらから聞くのを、何よりも楽しみにしてたはずなのに。
『いきなり彗星のように現れましたからね。それは西城の一年生ピッチャー、相原君も然り、西城高校全体に言えることですが』
『加納君の故障がなければ、こうやって私達の目に触れる事さえなかったわけですからね』
『そんなチームや選手が、全国にはまだまだ沢山埋もれているんでしょう』
ようやくワンちゃんの――西城の実力を正当に評価した解説者達。
さっきまでの俺なら、『ほら見ろ!』とか思って突っ込んでた。
けど、それができない。
だってワンちゃんは少しも嬉しそうじゃない。
誰でもない、彼自身が、自分に背負わされた過度の期待にうんざりしてる。
俺には熱くなる声援でも、ワンちゃんにはひたすら重荷になってしまうんだ。
それなのに、その重みを他の誰かに背負わせるような事、彼にはできなくて、そのジレンマに苦しんでる。
ワンちゃんは全然、特別なんかじゃない。
ゲッツーも喰らうし、すっぽ抜けの球だって投げる。
普通の……十七になったばっかりの、一高校生だった。
それでも――
観客はそんな、完全には程遠い一面を持っているから、『成瀬北斗』っていう人間に益々魅力を感じるし、その彼が、苦しみながらも自分に課せられた役目を果たそうと頑張ってるから、応援したくなるんだ。
ただその観客の想いが、今のワンちゃんには全然伝わってない。
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