chapter 6

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 客席からの応援の後押しがあったからじゃなく、実力で八、九番の下位打線を打たせて取ったワンちゃんが、あとアウト一つになって一番、二番と今度は連打を浴びた。  バットを短く持ち、当てる事だけに専念した打者がコンパクトに鋭く振り抜く。  一、二塁があっと言う間に埋まり、クリーンナップの三番に繋がれてしまった。  2アウトは取ってる。それに七回裏のバント失敗で、西城の守備力もワンちゃんのマウンド捌きも顕示できたはずだ。バントはまずない。  予想通り、打者が打つ気を漲らせ、ボックスの手前で気合の入った素振りを繰り返す。  小技を使われなくても、これはこれで相当やばい。  それでもワンちゃんは投げ続ける。  九回2アウト、一、二塁。  あとアウト一つ、それで終わる。  だから、もうちょっとだ。  『頑張れ!』なんて言えない。  こんなに全力を尽くしてるワンちゃんに、これ以上何を望む!?  俊足の左バッターを相手に胸元高めのインコース、ボールになる球で上手く仰け反らせる。  山崎のリードにも幅が広がり、八回には避けていた内角も要所に取り入れ始めた。  ワンちゃんが避けてたわけじゃなく、山崎の方がいきなりマウンドに立たされたワンちゃんの制球を危惧した結果のリードだったんだ。  それは想像じゃなく、恐らく事実。  彼のコントロールのよさがこんなところで実証されるとは、皮肉というか何というか。それでもぎりぎりの投球を続けてるバッテリーにとっては大きな強みになる。  そんな瀬戸際の投球でどうにかしのいできた二球目。  ストライクを取りにいった球が、相手の振り遅れ気味のバットに捉まった。  中途半端に上がった打球がピッチャーの頭上を越えていく。  センターに抜けたら勝ち目はない!  そう思い打球の行方を必死に追う。その先で今日、序盤から活躍してる松谷が再度好プレーを見せた。  二塁ベース手前で大きくバウンドした打球の落下点を正確に読み取り、体勢を崩しながらも守備範囲後方、後ろ向きに捕球する。これまたびっくりするようなファインプレーだ。 「っし!」  思わず拳をグッと握り締めた。  打ち取った、そう確信した。  それなのに、当然二塁に投げるものと思っていた松谷が、振り向き、ボールを掴んだまま止まってしまった。   ワンちゃんの代わりに入ったショートの選手が、まだカバーに入ってない! 「あっ!」 「バカッ! 一塁だッ!」  俺はともかく義純の怒声までが重なり、僅かな差でランナーが滑り込んで来た。  一足先にショートがベースに入る。けどそのタイミングじゃもう一、二塁とも間に合わない。  わかっていて、松谷がセカンドにボールを投げた。 「チッ」と毒づく舌打ち。  もしかして義純の言ってた「杞憂で終われば」とは、これだったのか。 『あ~、これは珍しい、名手松谷君のフィルダーズ‐チョイスです。これまで鉄壁を誇ってきた西城の守備陣に初めてのミス!』  ワンちゃんがマウンドから、本来自分のいるべき場所を呆然と見つめてる。  恐らくいつもの松谷なら、ベース上に誰もいなくても迷わず投げてた。  走り込むワンちゃんと二塁ベースとの距離を瞬時に把握して、ベストのポジションに。  それが、俺達の一番恐れる西城の守備の要。  なのに相手が変わった事で、上手く機能しなくなった。  当たり前だ、ワンちゃんの代りなんか誰にもできやしない。  松谷でなくたって、何の確証もなしに無人のセカンドには投げれない。  ワンちゃんがいないって事を意識しすぎたんだ。  そうでなければ二塁に拘ったりしないだろう。捕球後、すぐに一塁に投げてれば、松谷なら十分アウトにできるタイミングだった。  いつも通りワンちゃんがショートにいたなら、ダブルプレーの餌食になったかもしれない、際どい当たりだった。  ……違うか。  最初の松谷のファインプレーから始まった、西城の絶好のチャンスだった。  それなのに、それを自分自身の手で潰してしまった。  松谷のショックは普通のエラー以上に大きいんじゃないだろうか。  後を引かなければいいけど――― 『やはりメンバーチェンジのしわ寄せがきましたか』 『松谷君の好守でアウトにできるタイミングだっただけに、悔やまれます』 『全くです。西城高校には苦肉の策ですから、ここで3アウト取れなかったのが今後の展開にどう影響してくるか』 『対する明峰は満塁で室生君を迎え、ビッグチャンスが巡ってきました』 「あ~あ、やっぱ成瀬じゃないとダメだな」 「このツケは大きいぜ」 「しゃあねえだろ、先に借りを作ったのは西城だ」 「そりゃそうだ。あいつら全員で返していくっきゃねえな」  その先輩達の意見には同感だ。  ただ、身じろぎもせず松谷を見てたワンちゃんが心配だ。  守備が上手く機能しなければ、自分達でも気付かない内に全体の歯車が狂ってくる。  一旦傾きかけた流れを断ち切るのは、容易な事じゃない。  その役目は本来、ピッチャーが請け負うものだ。  なのに、最大の原因になってるワンちゃんが、それをしなければならないのか?  だとしたら、野球の神様ってヤツはどこまでひねくれてやがるんだ。  2アウト満塁。ボックスの手前には四番の室生。  絶体絶命、だ。  入念にスイングを繰り返す大物スラッガーは、子羊を前にした肉食獣にも見える。  その餌食になりそうなワンちゃんが、テレビに大きく映る。  そこには抗う事を諦めてしまったかのように、ハッと短く息を吐き出した、投げやりにも見える姿があった。  こんな彼を見るのも初めてだ。  イライラと、地団太を踏みたい気分で貧乏揺すりをしてしまう。  マズイって! このままじゃ。  どうにかしようにも、西城はもう三回の守備タイム使い果たしちまってる。  どうすりゃいいんだ!?  苦悩する俺を嘲笑うかのように室生が打席に入り、ワンちゃんが山崎のサインをじっと見つめる。  その投球リズムが、心なしか乱れた。  ってか、これまでのテンポより若干遅くなった気がした。  初めの二球、山崎が珍しく続けてボール球を要求した。  当たってもヒットになりにくい、俗に言う『臭いところ』というヤツ。  結果、一球はボールを見極められ、もう一球はあわやホームランかという当たりが、レフトスタンドぎりぎりで切れた。  さっきの守備の乱れが影響してるらしく、山崎のサインが明らかに弱気になってる。  逃げ腰での駆け引きに容易く引っ掛かる相手じゃないだろ!   って、言ってやりたい。 「おい~、なんかヘンでない?」 「あ、やっぱお前もそう思う?」 「なんかさぁ、さっきからタイミングがずれてる…ってか、ギクシャクしてるよな」 「ん~、何だろな? 一体」  二人の先輩も同じような事を感じてる。  それも、狂い始めた歯車のせいなのか?  懸念した通り、悪い流れに掴まってしまったように見える。  何もできず、両手を組んで乙女チックに祈ったりすんのは、絶ッッ対、俺のキャラじゃない。けどこの場面だけ、祈らせてくれ!!  神様、頼むよ! 一度だけでいい。俺の心を、ワンちゃんに届けてくれ!  1、1のカウントで三球目。  その前に、ワンちゃんがロージンバッグを拾い上げ、入念に滑り止めを使い始めた。  異様に長い間……有効時間をぎりぎりまで使い、それを手放したワンちゃんの口元に、どういうわけか笑みが浮かんだ?  なんで、この場面で笑うんだ?   喜んでいい時にはにこりともしなかったのに。  目の前に組んだ指の上からその様子を見守って、眉間にシワが寄る。  やっぱわかんねえ。  甲子園のマウンドってヤツが、そうさせてるのか?   首を捻ったのと同じタイミングで、満塁なのにワンちゃんがいきなり振り被った!?  その瞳が、これまでと全然違う!  攻撃的な野生の煌きを宿した、揺るぎのない強い眼差し。  ―――スッゲ、キレイだ。  左足が上がり、スパイクが地面に突き刺さる。  それは紛れもなく数日前の公園で俺が見たいと強く望んでいた、ワンちゃんの全力投球のフォームだった。  もしかして、神様が俺の願いを聞いてくれた!?  まさか、ありえねえっ!   いくら俺が本心から祈ってようが、大声で叫ぼうが、それがワンちゃんに通じるなんて都合のいい事、あるわけない。  それでも、ワンちゃんの変貌は事実。  なら、彼の中で何かが……起きたんだ。  スニーカーでも制服でもない、ユニフォームのワンちゃんが甲子園のマウンドで、渾身の力を白球に託す。  安定した下半身。力強く振り抜かれた右腕。  今までとは比べ物にならないほど重い音が山崎のミットの中で響き、和泉の食堂にも驚嘆の呻き声が広がった。 『おおっと、ここに来て成瀬君の球威が増した気がしますが』 『ええ、そうですね。コントロールを駆使したり、上手くタイミングを外して打ち取っていたんですが、さっきのは明らかに全力投球でした。こんな球も投げるんですねぇ』 『本当に、彼には驚かされてばかりですが、これも作戦の内なら非常に恐い存在です』 「スッゲ! 何、あいつ? ギアのチェンジでもしやがったのか?」 「んー、そうかもな」  首を傾げる今井副キャプテンに、浜名キャプテンが興味深げに相槌を打つ。 「今のが投げれるなら、最初っから投げてればいいのによォ」  愚痴っぽく零す副キャプテンだけど、それができず投手を辞めたワンちゃんにとって、今の投球がどれほど困難な事か、俺と義純はよく知ってる。  公園で投げた時には一度として見せなかった……意識して投げなかったんじゃなく、無意識の内に身体がセーブしていた、全力投球。  ここに来てさっきの投球をしたって事は、それだけ切羽詰まってるって事だ。  ワンちゃんがあれを投げる為に、犠牲にしたモノ。  それは、彼の一番大切な―――  口元が歪み、視界が揺らぐのと同時に、横から辛辣な呟きが聞こえた。 「フン、追い詰められてようやく力を発揮しやがったか」 「……義純ィ、お前……何でそんな皮肉ばっか言うんだ?」 「そっちこそ、なんて顔してんだ」  真正面から見返され、目を瞬いた。  今、自分がどんな顔してるか? そんなの、わかるわけないって。 「お前も望んでたんだろうが」 「…………」  ぶっきらぼうに言われ、口ごもってしまった。 「あいつの全力投球が見たかったんだろ?」 「そ…だけど……でも」 「なら、しっかり見とけ。あいつが今、一番見て欲しいと思ってんのは、あいつの大事な奴じゃねえ。お前だよ、一聖」 「お…れ?」 「ああ」 「まさか!」  有り得ない、と首を振る俺に一瞥をくれた義純が、短く嘆息した。 「信じる信じないはお前の勝手でいいさ。だが事実だ。それは覚えとけ」 「う……ん」  なんか、義純もヘン…だ。  普段だったらこんな事、口が裂けても言わないのに。  俺の心の支えでもあるヤツらが、二人揃って変貌してる。  内心動揺しまくってる俺とは対照的に、テレビの中では目に見えて変わったワンちゃんの投球にも動じる気配一つ見せず、山崎が硬球を投げ返した。  次のサインを確認し、頷いた四球目。  今度は1バウンドで山崎のミットにかろうじて納まり、ワンちゃんの表情に今までなかった安心感みたいなものが浮かんだのを見つけた。                                            『ああっと、今度は1バウンド! コースが定まりません、成瀬君』 『無理ないでしょう。あの球を完全にコントロールできるなら、間違いなくエースピッチャーですよ』 『確かに、それは言えてます』  アナウンサーの悲痛な声がテレビから流れる。  だけど、そんな心配は無用だ。  小学生の時、このバッテリーを初めて見て真っ先に憧れた、彼らの中にあった信頼関係。  義純と出会ってようやく手にしたものを、ワンちゃんもまたこの短いイニングで取り戻してる。  軽くグラブを上げて相棒に詫びるワンちゃんに、マスクを外し脇に抱えた山崎が、ふてぶてしいほど強気の笑みを浮かべ、手の平で拭いたボールを山なりに投げ返す。  その表情は五年前目にした野球大好き少年のものと、少しも変わってない。  あの頃の俺にはいなかった、何よりも大切なかけがえのない相手。  甲子園の球場で、少年時代の相棒の全力投球を捕球してる。  その思いがけない喜びが、山崎の表情や動作の一つ一つからもしっかり伝わってきた。  ふと、隣に座る相棒に問いかけてみたい衝動に駆られた。 「今のワンバウンド、義純ならどう? 取れたか?」 「……無理だな」 「ウソッ!? マジで?」  そんな弱気な事、言う奴だったか?  今度こそ驚きも露わに義純を見返したら、鼻先で笑われた。 「俺に投げるのは成瀬じゃねえ、お前だからな」  そんな事言われるなんて、それこそこれっぽっちも思ってなかったから、顔の筋肉が一気に緩んだ。  へらっと笑った俺を横目で見た義純の口元が、滅多に見せない優しい笑みを浮かべたのに、嬉しさのあまり見逃してしまった。  2アウトでランナーはそのまま、2ストライク、2ボール。  五球目、六球目、七球目。  ワンちゃんの全力投球が続く。  力を入れて見守る俺の心臓は、さっきからずっと自分がマウンドに立ってるようにドクドクしっぱなしだ。  いやいや、自分がマウンドにいる時のが絶対楽だ。  んでもってカウントはいつの間にか2ー3、後がなくなる。  定まらないコントロールでも、全部ストライクゾーンの真ん中に投げてるのは見てればわかる。  今更力をセーブした投球には変えられない。きっと室生のバットに捉えられる。  ワンちゃんの全力投球をもってしても、その破天荒な球筋を見極め当ててくる室生は、やっぱ今大会屈指のスラッガーと認めざるを得ない。  前評判はダテじゃなかったって事だ、口になんかしたくもないけど。  対するワンちゃんは、はっきり言って限界、もってもあと数球だろう。っていうか、さっきのベンチ内での様子がワンちゃんの疲労を物語っているとしたら、よくここまで持ち堪えたと褒めてやりたい。  九回2アウトまで漕ぎ着けたんだ、絶対打ち取ってくれ!   そう切実に願う俺と、シングルヒットでもフォアボールでも構わない、長打さえ喰らわなければ、と冷静に見極める俺。  二つの思考の狭間で揺れながら、勝つ事を前提に戦ってる選手にとって、その両方が共にどれほど困難な事か、俺が一番よくわかってる。  とにかく! もうこれで決まってくれッ!!  組んだ指を痛いほどきつく握り締め、瞬きもできず見つめる視線の先で―――  振り被ったワンちゃんの身体に、とてつもなく大きな力が加わった!?   ように見えた。  ストライクゾーンの中心に構えた山崎のミットが、微動だにせず歓喜に鳴った! 『三振ッ!! 明峰高校四番室生君、空振り三振に倒れましたッ!!』  一体、何が起きたのかわからない。  空振りした室生を前に、右拳を高々と突き上げたワンちゃんの、初めて見せる感情を爆発させた、むき出しの表情。  甲子園の泥にまみれながらも、背番号6が一際鮮やかに、眩しく映える。  そこにいたのは、『エースナンバーの似合うカッコいい男の子』じゃない。  幾多の困難を自分自身の力で乗り切った、逞しい高校生、『成瀬北斗』だった。
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